流護は中庭の木の根元に座り込み、空を見上げていた。

快晴だった青空はいつの間にか、巨大なうろこ雲が万遍なく覆う不気味な空へと変貌している。

確かファーヴナールの年とか言ったか。神を信じるような人たちがこの空を見れば、不吉なものだと思ってもおかしくないな、と流護は思う。

ぼんやりそんなことを考えながら座り込む流護の下に、すっかり見慣れた少女騎士が駆け寄ってきた。

「リューゴっ! だいじょう――っ」

ベルグレッテは流護の近くまでやってきて、はっと息をのむ。

「……、え……あなた、」

「よ、ベル子。どうした? そんな顔して」

信じられないものを見るように、彼女は流護を凝視していた。

「……驚いた。二十四体すべてのドラウトローの反応がなくなったから、急いであなたを探しに来たんだけど……、まさか――傷ひとつ、負ってないだなんて」

「へへ。ゲームで言やあノーダメージクリアってとこか?」

首をゴキッと鳴らしながら、流護はニッと笑う。

発言の意味が分からなかっただろうベルグレッテが、不思議そうに小首を傾げていた。

他の生徒も集まり始め、周囲に折り重なって倒れたドラウトローを見て感嘆の声を上げている。

「……ほんっと、とんでもないわねリューゴ。これだけの数のドラウトローに襲われたっていうのも前代未聞だけど、それを一人で撃退しちゃうなんて。しかも無傷で」

ほとんど呆れたように言い連ねる。

「こっちはみんなの助力もあって、食堂に乱入してきた一体をやっと倒したっていうのに……」

「一匹行ったのか……みんな大丈夫だったか?」

「うん、おかげさまで。……それにしても……ふふ。どうするの?」

ベルグレッテは何やら、いたずらっぽい笑みを浮かべてみせた。

「目立たないようにするはずが、こんな活躍しちゃって。これ、もう隠しきれないわよ? 王城に招かれて、名誉表彰ぐらいじゃ済まないかも」

「む……何かメンドそうだなそれ」

「め、面倒って。誰もが羨む功績をそんな……、ふっ、あはははは。リューゴって本当に不思議な人ね。本当なのかも。……あなたが、違う世界から来たって話」

「信じてないんだな、やっぱ……」

「あたしはね、思ったのですよ!」

にゅっ、とミアが二人の間に入ってきた。

「う、うおっ! ミア! 無事か? 大丈夫なのか?」

「うんっ! もう大丈夫!」

「そうか……よかったよ、まじで」

「う、うん。ビミョーにだけど、覚えてる。お姫さまみたいに抱っこして……リューゴくん、一生懸命走ってくれたでしょ? ……ありがと」

「い、いや。気にすんな。軽かったし、あんなんでよければいつでも……、ってのも何かおかしいか……」

「ん、んんっ。そっ、そうそう。あたしはね、思ったのですよ!」

少しだけ顔を赤くして、ミアは仕切り直す。

「リューゴくんって、ほんとに『竜滅書記』のガイセリウスの生まれ変わりなんじゃない? もう『転生論』的には、そうとしか思えない」

「てんせいろん? って何だ?」

名前だけでもう小難しそうだ、と流護は表情を渋くする。

「そっか。『別の世界から来た』リューゴは知らないわよね。この世界ではね、人は死んだら新しい命として生まれ変わると伝えられてるの。だから言ってしまえば、ミアも私もみんなも、誰かの生まれ変わりってことになるわけ。『別の世界から来た』リューゴは違うかもしれないけどね、ふふっ」

「あんだよベル子、トゲのある言い方しよってからに」

「でもそういえば……私、リューゴに初めて会ったとき、前にどこかで会ったことあるような気がしたのよね」

「……え? あ。そういや、俺もなんか――」

流護はブリジアの兵舎で初めてベルグレッテを見たとき、言いようのない何かを感じたことを思い出した。ただ見とれた訳ではない。

これほどの美人なんて今まで見たこともなかったのに、どこかで会ったことがあるような――既視感、とでもいうのだろうか。

そういえばあのとき、ベルグレッテも驚いたような顔で流護を見ていた。

「は、はああぁっ!? な、なにそれ! つまり二人は運命的になんかこう前世とかで惹かれあっていたとかメルヘンチックななっ、……あ」

ふらっ、とミアがよろけた。

「ちょっ、血が足りないんだから無理しないの。だいたい運命的とかそういうんじゃなくて……あ。ボロが出たわねリューゴ。別の世界から来たあなたが、私に見覚えあるはずないし」

そのベルグレッテの得意げな微笑みを見て、流護は、

「彩花……?」

なぜか、そう呟いてしまっていた。

「アヤ、カ……?」

流護の言葉を、ベルグレッテが無意識になぞる。

「オォオゥイ! アヤカってなんだ! 他の女か!? 他の女の名前いきなり呟くとか、やばいっすよベルちゃん! この男、なかなかの遊び人っ……、あぐっ」

ガクン、とミアがその場に膝をつく。

「あ、ああいや。何言ってんだ俺は。いや、彩花ってのはさ、元の世界にいた妹みたいなもんで……ベル子の方が全然きれいだし、……あ!」

「っ!」

ベルグレッテが耳まで真っ赤になった。

流護も顔が熱くなるのを感じた。

「へっ、騙され、ちゃ、いけねえぜ、ベルちゃん……いま、妹『みたいなもん』と言ったな、ミスタ・リューゴよ……それはつまり、実のいもう、とではなく……ぐふっ」

片膝をついたまま額に汗を浮かべ、「まだまだ勝負はこれからだぜ」とでもいわんばかりの無理矢理な笑みを見せるミア。何とかカウント中に立ち上がろうとしているボクサーみたいだ。

「いやミアもう寝てろよ……。っつか、もう関係ねえしな彩花とか。どうせもう、元の世界には戻れねえんだし」

「――え? どういうこと?」

ベルグレッテが目を見開いた。

「あ」

しまった、と流護も口をあんぐり開く。

『元の世界に戻れない』というのは、ほんの昼にロック博士――岩波輝との間で話した内容だ。当然ベルグレッテたちには話していないし、そんなことを言えば「どうして元の世界に戻れないって分かるの?」と突っ込まれるはずだ。

流護のことはともかく、ロック博士の事情を勝手に話してしまう訳にもいかない。

「どうして、元の世界に戻れないって――」

流護が予想した通りのセリフを口にしようとするベルグレッテ――

「……失礼。……ベル。あの件、一応話しておいたほうが」

それを遮る形で、離れたところにいたレノーレがやってきた。

「っと……そうだったわね」

ベルグレッテが緊張を帯びた表情に切り替わる。

「あ、さっきの話……?」

ミアも立ち上がり、不安そうな顔を覗かせる。

「ん、リューゴ。四日前、ドラウトロー三体を研究部門に引き渡した件。あの結果が出たの」

「……あれか。何か分かったのか?」

「もともとドラウトローはこの周辺にいないはずの怨魔だし、あまり研究が進んではいないものではあったんだけど……今回、新しい特性が判明したわ」

「……今まで判明してなかったのも、無理はないと思う」

無表情のレノーレがそう補足する。

「ドラウトローは夜行性だと思われてたけど、ある特定の状況下においてのみ、昼間でも行動することが確認されたの」

ベルグレッテは流護の目を見つめ、続ける。

「――恐慌状態。極度の恐怖にかられたドラウトローに限ってのみ、昼間にも行動することが判明したのよ」

「――――、な、に?」

発せられた流護の声は、かすれていた。

「強い恐怖に晒されることで、魔除けの神詠術《オラクル》すら効果がなくなる……というより、魔除けに気付く余裕がなくなっちゃうみたいなの。一種の興奮状態かしらね。だから、街道内や学院にまで侵入してきた。けどもうすでに、研究部門が新しい魔除けを考案してるところよ」

「そう、か。けど――」

恐怖にかられたドラウトロー?

――恐怖。

それはむしろ、あの黒い怨魔こそが振り撒いているものではないのか?

そんな流護の疑問を感じ取ったのか、レノーレが言い添える。

「……カテゴリーBでも上位に位置するドラウトローに恐怖を与えられる存在なんて、そういるはずがない。……だから、この特徴は今まで判明してなかったんだと思う。……そして、それが今意味するところは」

レノーレは無表情ながらもわずかな焦りの色を浮かべて、ベルグレッテのほうを見る。

「つまり、四日前……そしてたった今、学院に現れたドラウトロー。奴らは、『恐怖を感じるほどの何かから逃げた結果、この地域周辺にたどり着いた』のだと推測できる」

そのベルグレッテの言葉に続き、レノーレが結論を述べた。

「……そう。ドラウトローは、学院を襲ったんじゃない。学院に、逃げ込んできた」

ぞくり――と。流護の背筋に、言いようのない悪寒が走った。

二十体以上もいた、黒き殺戮者たち。

確かに流護は無傷で殲滅したが、それも極限まで冴えた体技や集中力あってのものだ。四日前に対峙して分かっている通り、あの豪腕が直撃すれば、流護とて無事では済まない。ドラウトローの強さは、身に染みて理解していた。

「でも安心して。ドラウトローのやってきた方角からおおよその場所を割り出して、すでに王国の部隊が……『銀黎部隊《シルヴァリオス》』じゃないけど、ロムアルドの部隊が向かってる。さすがにSクラスはないだろうけど……おそらく、Aクラス相当の怨魔がいるんだと思う。今は連絡待ちで、場合によっては学院からの避難も検討してるところなの」

しかし、レノーレが冷静に現状を分析する。

「……でも正直、避難は難しい。……まだ昼間で街に出かけてる人も多いし、実家に帰ってる人たちにも個別に連絡なんて取っていられない」

「そうね。仮に私たちが避難できたとしても、なにも知らない人たちは学院に戻ってくるから」

思い思いに休日を過ごしている生徒たち全員に連絡を取るのは難しいだろう。どれだけ時間がかかるかも分からない。

「実質、避難はあんま現実的じゃないってことか……」

「ま、まあアレだよね。ロムアルドさんの部隊が向かったんだから、もうなにがいても――」

そのときだった。ミアの言葉を遮り、ベルグレッテの周囲に波紋が浮かんだ。それは――通信の神詠術《オラクル》。

『ベルグレッテ! 今、どこにいるッ! 学院にいるのか!?』

尋常でなく逼迫した男の怒号が響き渡った。

「ロ、ロムアルド? どっ、どうしたの? 今は学院にみんないるけど――」

『ダメだ! 逃げろ、そこから! コイツはドラウトローを追って、学院に向かうハズだ! 早く! 逃げてく――げああぁッッ!』

『ロムアルド隊長ォッ!』

『くそが! ありえねえっ……全滅すッ――がはっ!』

『生き残ったドラウトローはいねえのか! なんとか、そいつらを囮に――』

『ドラウトローなんぞ全滅しちまってるよ! ……ッう、わぁああああ!』

『神よ――嘘だ、こんな……創造神よ! こんなこと――、ガ』

そこで、通信は切断された。

「――――――え?」

呆然としたベルグレッテの声がぽつりと漏れる。その場の全員が凍りついていた。

「ロ、ム……アルド?」

震える指ですぐに通信の神詠術《オラクル》を紡ぐが、

「ロムアルド! ロムアルドっ! なにがあったのッ!? ロ……、」

通信に、応答はなかった。

「……な……なに、うそでしょ……? ロムアルドさん、めちゃくちゃ強いのに……」

ミアがへたり込みそうになり、

「……ベル。みんなを、避難させよう」

レノーレですら、顔色を蒼白にさせていた。

「――分かった。……こんなときだからこそ、しっかりしないと」

ベルグレッテは気丈にも、集まった生徒たちを避難させるべく指揮を執り始める。

流護はその様子を見ながら考えていた。

今の通信の神詠術《オラクル》から漏れていた悲鳴。兵士たちに断末魔を上げさせていたモノ。ドラウトローが学院へ『逃げてくる』ことになった、原因。一体、何者だというのか。

三分ほど経っただろうか。

さすがに事態が事態だけに、ベルグレッテも生徒をまとめるのに苦労しているようだ。

やることのない流護は、何となく落ち着かずに空を仰いだ。

うろこ雲に覆われた不気味な空を、飛行機が飛んでいる。

飛行機か。何だか久しぶりに見――、

(――は?)

……飛行、機? そんなもの、この世界にあるはずがない。

流護は思わずそれを凝視する。次第に、形がはっきりしてくる。

ゆっくりと飛んできたそれは学院の上空に静止し、降下を始めた。

そこで流護以外の全員も、それに気付いた。

誰も声を出さない。

この場に集まった約五十名。全員がただ呆然と、降りてくるそれを見つめる。

ヘリコプターが着地しようとしてるみたいだ、と。流護はただそんなことを思ってしまった。

蝙蝠に似た巨大な翼が羽ばたくたびに、芝生がそよぐ。土埃が舞う。

灰色の鱗に覆われた身体。

大鎌じみた曲線を描く鋭い爪。それを擁する丸太のように太い四肢。

裂けるほど大きい口には、鋼鉄の剣を思わせる牙がびっしりと揃っている。

顔の両脇にあるギョロリとした巨大な目は、カメレオンによく似ていた。

現代日本からやってきた少年の知識では、それは爬虫類――トカゲにしか見えなかった。ただし。

優に体長十メートルを超え、空を飛ぶトカゲなど、見たことはない。

流護は、ただ見たままのイメージを呟く。

「……、ドラゴ、ン……?」

それは、ただ悠然と――当然のように、大地へ降り立った。

流護たちの、目の前へ。

「――こんな、うそ……見た、こと……ない」

ベルグレッテが、息も絶え絶えに呟く。

「……ベル子ですら、知らないヤツなのか?」

「…………、違う。教本でしか、絵でしか、見たことない」

その名を口にした。

「――邪竜、ファーヴナール――」