「ちょっと、ベル、ベルってば!」

「……え、なに? リリアーヌ」

リリアーヌ姫に呼ばれていることに気付き、ベルグレッテはそちらへ顔を向けた。

「なに、じゃないわ! お茶、お茶!」

何をそんなに慌てているのかと思い――そこでようやく気付く。

ポットを傾けたままの自分の手。カップに注いでいる紅茶が、なみなみとテーブルに溢れ出していた。

「わー!」

慌てて手を止める。

「ベル……ちょっとおかしいわよ? 疲れてるの? ……あ、もしかして!」

リリアーヌ姫が意地悪そうな笑みを浮かべた。民衆にはお見せできない顔だ。

「リューゴどののこと考えてたんでしょ。困りますわねー。ロイヤルガードは、主に身も心も捧げるのが習わし。そんなロイヤルガードたるベルが、殿方のことを考えて放心しているなど、わたくしは困ってしまいます。というわけで、詳しく話しなさい! さあさあさあっ」

さささ、とにじり寄ってくるリリアーヌ姫。民衆にはお見せできない動きだ。

「そうだね……」

しかしベルグレッテは零れた紅茶を拭きながら、力なく呟くだけだった。

「ベルがつめたい……」

しゅんとするリリアーヌ姫。

しかしすぐに顔を上げて、毅然とした声で言――否、命じた。

「王女、リリアーヌ・ヴェルティア・レインディールとして命じます。何があったのか話しなさい、ベルグレッテ」

「う、ずるいよリリアーヌ……。そう言われたら、拒否できないじゃない……」

「……話すだけでも、気が楽になるものですし」

そう言って、リリアーヌ姫は己が騎士に優しい眼差しを向ける。

ベルグレッテには分かっている。

この件は、騎士たちを頼れない。アルディア王にも頼れない。

姫は。リリアーヌ姫は、きっと――

「……命令とあっては、しかたありません。お話しします。実は……」

ベルグレッテは話した。

親友が……ミアという娘が、実の親に売られてしまったこと。二日後には、競売にかけられてしまうこと。何としても連れ戻したいが、手立てがないこと。

そして――仮に連れ戻せたとして、実の親に売られてしまったミアは、すでに家族との関係が破綻してしまっていること。家族のために学院に通っていたミアは、学院にいる理由がなくなってしまったこと――。

「……それは、困りましたわね……」

リリアーヌ姫は、うんうんと唸り始めた。

「お父さま……は、無理ね。『銀黎部隊《シルヴァリオス》』も……オルエッタなら、力になってくれるかも……でも……うーん……」

ベルグレッテには分かっていた。

この優しい幼なじみは、リリアーヌ姫は、一緒になって悩んでくれる。

『すべての人が幸せになれる世界』。

それを本気で夢見ているリリアーヌ姫。『アドューレ』の際にも必ず触れるテーマ。そんな世界を願う姫は、親身になって悩んでくれるのだ。

しかし。一国の姫とはいっても、リリアーヌ姫には権限がない。人身売買を廃止する法律を成立させることはおろか、一兵士を動かすこともできない。権限の全ては王にある。

公的に姫が命を下すことができるのは、己がロイヤルガードのみ。

「……わたくし、いつも思うわ。なぜ、姫などに生まれてしまったのだろう、って」

「リリアー……ヌ?」

突然、何を言い出すのか。

ベルグレッテは、思わずリリアーヌ姫の顔を見た。

「わたくしには、なにもできない。王族としての権限があるわけでもない。自由に外出することすらできない。……本当に、ただのお飾り。『箱入り娘』だなんて言葉があるけれど、本当に城という箱の中にしまわれているだけの存在。みんなが幸せになれる世界を願っていながら、力なんてまったく伴わない」

姫は、泣きそうな顔をしていた。

「だから……それならいっそ、普通の娘に生まれていればなぁーって思うことがあるの。それでベルたちと一緒に、学院に通うの」

どこか思い出を語るように。

「きっと楽しいわ。ベルやクレアから学院の……お友達の話を聞くたびに、わくわくしたもの」

リリアーヌ姫は、力強い瞳でベルグレッテを見据えた。

「だからね。そのミアさんもきっと、ベルたちと一緒にいて、楽しかったはず。幸せだったはず。だから……助けてあげて。また一緒に、学院で暮らせるように」

「リリアーヌ……」

「……ごめんなさい。分かりきっていることよね。助けたいのに手立てがないという話なのに。でも……、あーもう! 自分がいやになっちゃう」

「……ううん。ありがと。少し、元気でた」

ベルグレッテは笑顔を見せる。

残された時間は二日。手立てなし。状況は絶望的。

けれど。諦めるのは、やれることを全てやって、だめだったときでいい。

――いや。絶対に、ミアを諦めたりなんてしない。

「……ベルグレッテ」

愛称でなく名を呼んだリリアーヌ姫に、ベルグレッテは顔を向ける。

「王女、リリアーヌ・ヴェルティア・レインディールとして命じます。これより……そうね、十日間。わたくしの警護の任を解きます。ミアさんを助けることに、すべての力を注ぎなさい」

ベルグレッテは息をのんだ。

「け、けど……リリ、いえ、姫」

「よいのです。この城から出ることのないわたくしに、なんの危険がありましょうか。そもそも、あなたは現在、見習いの修行としてわたくしに付いている身。今、修行などをしている場合ではないでしょう? 本当にあなたの助けを必要としている人が他にいるのですから」

「……姫」

「わたくしはオルエッタにかまってもらうとします、ふふ。さ、お行きなさい。騎士ベルグレッテ」

ベルグレッテは敬礼をもって答えた。

「……、はっ。姫の、お心のままに」

頷くリリアーヌ姫。ベルグレッテも頷き返し、部屋を出る。

ミアを絶対に連れ戻す。

強い決意を、その胸に秘めて。

頼りになる自分のロイヤルガード(見習い)が出ていった扉を眺めて、リリアーヌは溜息をついた。

――なんという無力さ。自分を、呪いたくなる。

『すべての人が幸せになれる世界』。幼少の頃からリリアーヌが抱いている理想であり、『アドューレ』の際にも必ず触れる話題。甘い絵空事だということは分かっている。

民衆たちは手放しで称賛してくれるが、まさに社交辞令なのだろう。ケリスデルには「それは理想ではなく幻想です」と手厳しい意見を言われたこともある。

そんな世界を夢見て、作っていきたいと思う身でありながら、民衆の女の子ひとりを助けることもできない。

無力感に打ちのめされ、泣きそうになる。そこで泣きそうになっている自分が、もっと嫌になる。自分が泣けば、大勢の人々が心配してくれる。けれど彼女は……ベルグレッテの親友であるミアという少女は、泣いたところで助けが来ることはない。

何ひとつできず悲嘆にくれているところで、コンコンとドアが叩かれた。

「あ……はい」

「オルエッタです。紅茶のおかわりとお菓子をお持ちしました」

聞こえてきたのはおっとりとして落ち着いた女性の声。

ベルグレッテやクレアリアと同じぐらいに心を開いている『友人』の声に、リリアーヌは意気消沈しているのを悟られないよう、明るく「どうぞ」と入室を促した。

「失礼しますね」

銀色のトレイに紅茶のポットとチーズケーキを乗せて入室してきたのは、背中まで伸びた白髪《はくはつ》が印象的な女性。ロック博士のような灰色混じりの白髪《しらが》ではなく、生まれつきの白く美しい髪は、まっさらな白雪を思わせた。……ロック博士ごめんなさい、とリリアーヌは心中で手を合わせる。

歳は二十四。細く小さな顔のラインに、整った鼻梁。細い二重まぶたの瞳。慈愛に満ちたその微笑は、いつもリリアーヌの心を落ち着かせてくれる。

白を基調とした格調高いドレスの上に羽織っているのは、肩を覆うような黒いケープ。

夏用の薄手のドレスは彼女の美しくも引き締まった身体のラインを想像させ、同じ女性であるにもかかわらずリリアーヌはつい目を奪われてしまう。

それこそ名家の貴婦人といっても違和感のない気品を醸し出しているが、オルエッタは見目麗しき貴族の令嬢でもなければ、男たちの視線を釘付けにする深窓の姫君でもない。

穏和な雰囲気の彼女が腰に提げた、禍々しい邪気をそのまま具現化したような黒い曲剣《ファルカタ》。その対比を見れば、それは一目瞭然だった。

オルエッタ・ブラッディフィアー。『白き宵闇(メエーリア)』の二つ名で知られる、『銀黎部隊《シルヴァリオス》』の副隊長。

凄まじい戦果を誇る恐ろしき詠術士《メイジ》であるが、リリアーヌにとっては姉のような存在だ。

「あれ? ベルグレッテはどこに行ったのですか?」

テーブルにトレイを置きながら言うオルエッタに、リリアーヌは「ええ、ちょっと……」と言葉を濁した。

「せっかくベルグレッテの分のおやつも持ってきましたのに。いないなら、あの子の分も私がいただきましょうかね~」

「そうですわね……」

「…………」

リリアーヌの腰かけていたベッドのすぐ隣が、ぎしっと軋んだ。

「どうしましたか、姫様。いつもならお菓子の取り合いになりますのに。あと今、私がベッドに腰掛けたら『ベッドのすぐ隣が、ぎしっと軋んだ』とか思いませんでした? 思ったでしょ。失礼してしまいますね~、私、そんなに重くな……、重くなったのかしら? いえ、これは剣の重量であって……」

一人で喋って一人で困惑するオルエッタに、リリアーヌはふふっと吹き出した。

「意気消沈しているのを悟られないように」などと思っていながら、あっさりと看破され、心配されてしまっている。

「ベルは……しばしの間、護衛の任を解きました。では、ベルの分のケーキもいただきましょうか!」

「ただのケンカ……などではなさそうですね。聞かせてくれます?」

リリアーヌはこくりと頷き、オルエッタに話した。

ベルグレッテの親友であるミアという少女が、実の父親に売られてしまったこと。その父親と奴隷組織『サーキュラー』の間で同意のうえに商談が成立してしまっているため、法的には手出しができないこと……。

一通りの話を聞き終えたオルエッタは、ふぅと小さな溜息をついた。

「この手の話がなくなることはありませんね。私も、十歳ぐらいの時だったかな。いつも遊んでた友人の一人が突然いなくなって、親には『遠くに行ってしまったんだよ』なんて言われたことがあります。彼女の両親や兄弟は、変わらずいるのに。葬儀や墓だってない。亡くなったわけではない。彼女は、本当に忽然と姿を消してしまった」

懐かしむような口調で、どこか悲しそうな顔で……オルエッタは語る。

「真実を知ったのは、それから何年も経った後でした。こういったことは無論、頻繁ではありませんが……経験したことのある人は、少なからずいるはずです。……いえ、『経験したことがある』程度ならまだいい。実際に、自分が連れ去られてしまうよりは」

リリアーヌは愕然とする。

オルエッタですらそんな経験をしていたことに。そして、そんなことが当たり前のように起きているというこの現実に。

「そのミアさんも、せめて学院を卒業していれば……、もう少しだったのに。時に創造神は、酷な運命を背負わせますね」

学院卒業などを機に、親元から独立をする『子』は多い。

正式な手続きを踏むことで、子は一人前の『成人』として国に登録される。成人となれば、自分の力で生きていかなければならなくなる代わりに、他から干渉を受けることもなくなる。

ミアが学院を卒業して独立し、成人となっていれば、父親にミアを売ることはできなかったのだ。

無論、だからこそ成人する前に、『子』であるうちにミアを売ってしまったのだろう。

「……ではこれを機に、姫様の世界を実現させるべく……始動しちゃいましょうか」

「え?」

オルエッタの言葉の意味が分からず、リリアーヌは目を見開いて傍らの麗人を見上げる。

「姫様が一声命じてくだされば、私が参りましょう。相手は『サーキュラー』でしたね。なぁに、あんな鶏ガラのような烏合の衆。連中は勿論のこと、盾突いてくるマフィアどもも残らず一掃し、私がそのミアさんを救い出してみせましょう」

その提案に、リリアーヌは思わずぽかんと口を開けた。

「民衆たちは拍手喝采、今は男性から人気があるせいで女性人気がいまいちな私ことオルエッタさんですが、もはやそこは老若男女問わず大人気となるでしょう。うふふふ。しかしきっと……それが、全ての始まりとなります」

「すべての……はじまり?」

「姫様が夢見る世界の、困難な幕開けです。……話は変わりますが、陛下が民衆たちから絶大な支持を得ているその理由を、姫様は理解しておられますか?」

豪快でありながら繊細さと冷酷さも兼ね備えた、頼もしくも恐ろしい、けれどやはり大切な父親。

アルディア王とは、リリアーヌにとってそんな存在だ。

そんな父王は、民衆たちからの支持率が過去に類をみないほどに高い。ときには冷酷とも思える判断を下し、他国にはその傍若無人な振る舞いから『暴王』などと揶揄されたりもするが、民衆たちから人気があるのも事実。

そして、そんなアルディア王が高い支持を生み出している理由。それは――

「お父さまは……よくも悪くも、平等。だからこそ、みなさんがついてきてくれる」

「その通り。陛下は皆を平等に扱う。平民貴族に関係なく気さくに話しかけ、祭りがあれば民に混ざってご自身も楽しみ、税率を上げなければならない時はまず自分が倹約し、その上で民に頭を下げてお願いする。失礼な言い方かもしれませんが……まるで、『気のいいおじさん』のような。そういうところが、皆に好かれる要因なのだと思います。……個人的には、『オルエッタ、胸デカくなったんじゃねぇか!?』とかいつも言ってくるのでそこは非常にマイナスです」

ふふっ、と笑うリリアーヌを横目に、オルエッタの口調が真剣みを帯びる。

「しかし……ミアさんを助けることで、この『平等』が崩れることになります」

「!」

リリアーヌは意味を察してハッとする。

「正確には……『平等の難度が上がる』とでも申しましょうか。親が子を売るという行為。時には『いい子にしねえと売り飛ばすぞ!』と子を叱る際に用いられるほど、暗黙の了解として定着しているこの悪習に、ついに法の人間が介入するわけです」

そう。そういうことだ。

「平等を保つため、今後、全ての理不尽に売り飛ばされようとしている子供たちを助けなければなりません。『ミアさんはベルグレッテの友人だから助けた。でも他の子は助けられない』。これでは、民衆たちも不満を募らせることになりますからね。おそらく数万人ではきかない規模の子供たちを全員助ける必要が生じ、そうなれば奴隷組織やその手の仕事を生業としている者たちが反発するでしょう。ひいては裏社会に生きる者たちと激突することになります。民衆に犠牲も出るでしょう。戦うためには資金も要りますし、少しずつ募った人々の不満がいずれは反乱になり、ついには内乱となるかもしれません。……とまぁ、これは古来でいう『風が吹けば桶屋が儲かる』的な理論ですけど」

けれど、決して大げさな話ではない。

『ミアはベルグレッテの親友だから助ける』。そんな贔屓をしてしまえば、軋轢を生む原因となる。しかし本気で他の子供たちをも助けるならば、制度の抜本的な改革から必要となる。現状では、不可能に近いということだった。

容易なことではないから、全ての売られる子供たちを『助けない』ことで『平等を保っている』のだ。この問題に関してはもう、アルディア王が統治する遥か以前から。

それも当然。これはかの高名な詠術士《メイジ》、ディアレーでも成せなかった難題。

ミアを助けるならば、他の皆も平等に助けなければならない。いや、助けたい。

けれど全てが一本に繋がっていて、隅っこを引っ張れば全てが倒壊する。そんな風に、この悪習は根付いてしまっている……。

「姫様が今後、努力をされていけば……いずれは、こういったことも変えられるかもしれませんが……」

オルエッタは言いづらそうに、言葉を濁す。

一朝一夕では不可能。そういうことだった。

「せめて……そのミアさんが、お金持ちで紳士的な、こう……気のいい聖人みたいな人に買われればいいんですけどねっ」

落ち込んだリリアーヌを励ますように、おどけた口調で言うオルエッタ。

きっと幼い頃、友人が売られてしまったということを知ったときにも、彼女はそんな風に思ったに違いない。

無力な姫には泣きそうな気持ちでうつむくことしか、できなかった。