翌日の夕方。

「うーし、お終い! 今日もお疲れ!」

作業場のリーダーであるローマンの適当な挨拶で、一日の仕事が終わる。

「そんじゃ明日は昼過ぎからだな。ヨロシク頼むぜ!」

「え? 昼過ぎから?」

「あん? そっか、そういやリューゴが来てからは初めてになるのか。明日はオルティの午睡だからよ。ちなみにオルティの午睡ってのは、ようは半日休みだ。年に二十日ぐらいあってな、日付はその年ごとで違う。必ず午前が休みになるんだ」

流護は世代でないので詳しく知らないが、以前は日本の学校などでも土曜が半日休みだったと聞いたことがある。午前だけ行って午後から休みだったらしいが、オルティの午睡はその逆バージョンとでも考えればいいのだろうか。

「何のためにあるんすか? そんな半端に午前だけ休みなんて」

「うむ。その昔あるところに、オルティとかいう吟遊詩人の男がいたそうでな――」

オルティは、夜空へ浮かぶ女神イシュ・マーニに恋をしました。

夜になると人々は眠ってしまうため、イシュ・マーニはいつも夜空に一人きり。

それを不憫に思ったオルティは、連日連夜、仲間たちと宴を催します。彼女が少しでも、寂しい思いをしなくて済むように。

毎晩のように騒いだオルティは、眠気から昼寝ばかりするようになってしまいました。

「……つう訳で、毎晩騒いで昼間にグースカ寝てるような野郎じゃ、イシュ・マーニだってお断りだろうなーっていうダメ男の話だよな」

「あれぇ……」

いい話なのかと思ったらそんなことはなかった。

「あとは何だかんだ、夜仕事の売り上げがデカくなるらしいぜ。酒場とか娼館とかな。翌日仕事だと、遅くまで遊ぶワケにもいかねぇからな。でも次の日が昼過ぎからでいいなら、気兼ねなく夜遊びできるってモンだろ? かといって、丸一日の安息日がそうしょっちゅうあっても困る」

それはそれで随分とうさんくさい話だった。

と、ローマンは流護の首にガシッと浅黒い腕を回してきた。しし、と下世話に笑う。

「リューゴよ、噂聞いてんぞ? お前さん、ベルグレッテ様とイイ感じだっていうじゃねえか。つまりこれから王都に向かって、ベルグレッテ様と一晩熱い夜を過ごして、明日ゆっくり戻ってきてもいい訳だ」

「は、は!? な、何言ってんすか」

ガハハと笑ったローマンは、バンと流護の背中を叩いた。

「ま、俺もこれから王都の実家に帰るんだけどな。今夜は、嫁さんと久々に燃え上がる予定よ」

いや、それは言わなくていいです。

「そういう訳だからよ、明日は昼過ぎからヨロシクな! 二時前ぐらいでいいからよ!」

「は、はあ……」

随分とアバウトだった。

そういえば初めて安息日のことを聞いたときも、こんな風に突然言われたなあ、と思う流護だった。

橙色に染まる中庭を学生棟へ向けて歩いていると、見慣れた小さい影が二つ、入り口から出てくるところに遭遇した。

「お、リューゴくんだ。お仕事終わったとこ?」

ぴょこんと跳ねて寄ってきたミアが、屈託のない笑顔を見せる。もう一人――クレアリアは、ちらりと流護を一瞥するのみ。

「おう。二人はこれから出かけるのか?」

そう思ったのは、二人が私服姿だったからだ。ミアはシックな色合いの涼しげなワンピース。クレアリアは蒼の煌びやかなドレス。

問いに答えたのは、クレアリアだった。

「ええ。少々、王都まで」

「おおっと、知ってるぞ。オルティの午睡だから、遊びに出かけるんだな? へへへ」

先ほど仕入れた知識を早速とばかりに披露する。

「なぜそんなことを得意げな顔で言うんですか?」

はい。すみません。

「ところで……やはり貴方も無関係ではありませんので、今更ですが報告しておきます。ミアの件などもあってゴタゴタしていたため随分と報告が遅れましたが、デトレフの処刑が執行されましたので、連絡まで」

「!」

処刑されると、前もって聞いていた話ではある。それでも、ヒヤリとした何かが流護の内側を通り過ぎた気がした。

結果として見れば、間接的だったかもしれない。けれど……自分が、殺した。

「……そう、か。あ、もしかしてその関係で出かけるのか?」

「それもあります。あとは、先日のレドラックファミリーとの交戦でケガをしてしまった同僚が入院しているので、そのお見舞いも兼ねて」

その話を聞いて、ミアの顔がわずかに曇った。

「……そうだよね。騎士の人たちみんなで、あたしを助けに来てくれたけど……そのせいでケガをしちゃった騎士さんもいるんだよね。なんだか、もうしわけないや」

「それは、筋違いというものです」

うつむいたミアに、クレアリアがぴしゃりと言った。

「え?」

当のミアは呆けた表情で顔を上げる。

「騎士が民を守るのは当然のこと。その過程で騎士がケガをしたり命を落としたりしたとしても、それは騎士自身の責任です。今回も同じ。アルマがケガをしたのだって、彼女が未熟だっただけの話」

「アルマ……さん?」

「ああ、ケガをした同僚の名前です」

そこでクレアリアは、ちらりと流護のほうを見た。

「私がケガをしたのも同じ。私が未熟であるがゆえ、デトレフに遅れを取ったということ。……けれど、そのせいでアリウミ殿の手を煩わせたのも事実でしたね。遅れましたが、その節はご迷惑をおかけしました、アリウミ殿」

軽く。しかし丁寧に、クレアリアは流護に向かってぺこりと頭を下げた。

いつもキッと睨み据えてくる彼女は、珍しくそのまま流護から目を逸らす。恥ずかしがっているのが丸分かりで、流護は思わずにやけてしまいそうになった。実際ににやけてしまうと烈火のごとく怒り出すのは分かりきっているので、何とか真顔を保ち、珍しく恥ずかしげなクレアリアさんの表情を堪能する。

「……な、何ですか」

「ふひひひ」

「ミアも何ですかっ」

そこで学生棟入り口の大きな扉が、ギッ……と音を立てて静かに開け放たれた。

「……あ、二人ともいた」

出てきたのは、その属性たる氷のように涼しげな無表情のレノーレ。彼女もまた、私服姿だった。黒を基調とした簡素なドレス。しかし透明な宝石がいくつもあしらわれており、安物でないことが流護にも一目で分かるほどだった。もしかしてこの少女も、良家のお嬢様だったりするのだろうか。今更ではあるが、確かに気品を感じさせる顔立ちをしている。

「なるほど、三人で出かけるのか。気をつけてな」

娘たちを送り出す父親のように頷き、俺は何しようかなーなどと流護が思っていると、ミアが思いついたように明るい声を響かせた。

「ねえねえ、リューゴくんも一緒に行こうよ!」

「え?」

「え?」

流護とクレアリアが完全にハモった。

「何故、アリウミ殿を――」

「だってほら、クレアちゃんはお城と病院に用事あるでしょ? その間、あたしとレノーレ二人で待ってないとだし……こないだのこともあるし、ちょっと不安かなーって」

「……む」

困ったような笑顔に、クレアリアは呻く。

二度もさらわれたミアの心の傷は、そう簡単に癒えるものではない。この少女はあれ以来、常に誰かと一緒にいるようになっていた。

「……仕方ありませんね。分かりました。アリウミ殿、よろしいですか?」

「あ、ああ」

流されるままに返事をする現代っ子・有海流護。しかし問題はない。どうせ暇だし、王都……城に行くならベルグレッテにも会えるかもしれないし――

「ちなみに言っておきますが、今回、姉様には会えませんので悪しからず」

「な、なにっ」

思わず声を出してしまった流護に、クレアリアがジト目を向けてくる。

「『銀黎部隊《シルヴァリオス》』の壁外演習があって、そのしわ寄せを受ける形で業務が増えてるため、姉様は忙しいんです。……何ですかアリウミ殿。姉様に会いたかったんですか?」

何だそのあまりに率直な問いかけは。

「あったりまえじゃないですかー!」

ミアが飛び跳ねてクレアリアに抱きついた。「でもクレアちゃんも好きだよ!」と纏わりつく少女を振り払おうとするクレアリアだったが、身体の小さい彼女は姉のように上手く振り払えず、ミアと一緒に芝生へ倒れ込んだ。

「あーもう……、あ、アリウミ殿。もう十五分ほどで馬車が到着しますので、早めに準備を済ませてきてください」

流護は心の中でミアに向けて親指を立てる。

ミアさんナイス。うやむやになった。

曇っているようで、空に巨大な月の姿はない。

完全な闇に飲み込まれた道を、馬車が行く。光源は御者台や客室に備え付けられたカンテラの光のみだ。

ちなみに流護たちの乗る一台だけではなく、前後にも馬車が走っている。王都へ出かける者が多いようだ。

学院を出て二時間ほど。これでようやく半分だ。相変わらずの長旅に、こればっかりは中々慣れそうにないな、と流護は溜息が出そうになる。

ガタガタと揺れる中、レノーレは平然と本を読んでいた。流護も以前、座席に置いてあった吟遊詩人のインチキガイドだかに目を通したことはあったが、これだけ揺れる中、本格的な読書となると、とてもではないが不可能だ。

ミアとクレアリアは、約一週間後に迫った長期休暇――『蒼雷鳥の休息(ラプターズレスト)』の予定についてあれやこれやと盛り上がっている。

流護は何となく、馬車の窓から外を眺めた。馬車内を小さなカンテラが照らしているせいか、窓ガラスに映る自分の顔しか見えないな――と思った瞬間、空がピカッと瞬いた。数秒遅れて、腹の底に響くような轟音。雷だ。

「おおー、ジューピテルさまだー。久しぶりだなあ」

少し嬉しそうに呟いたミアは、いそいそと窓の方へ向き直り、両手を(そのぺったんこな)胸の前で合わせた。目をつぶり、祈りを捧げる。ミアは雷使いということで、やはり雷の神の信徒なのだ。

まるで少女の祈りに呼応するように、夜空が二度、三度と明滅する。

この世界の神とその信仰については、流護もロック博士から多少の話を聞いていた。

基本的には皆、創造神ジェド・メティーウ、昼の神インベレヌス、夜の女神イシュ・マーニを無条件で信奉し、あとは各々の持つ属性の神、各自の携わる仕事に関連する神を崇めるのだという。

「あら、ウィーテリヴィアはおいでになるでしょうか。ここ最近、雨も降っていませんし」

窓の外を眺め、クレアリアが呟く。

ウィーテリヴィアは水の神だ。水属性であるベルグレッテやクレアリアの信仰する神。

雷はジューピテルの発する気。雨はウィーテリヴィアの恵み。ロック博士によれば、そんな解釈でいいらしいとのことだ。

「……そういえば、思ったのですが」

クレアリアが流護に目を向ける。

「アリウミ殿が信奉していた神は、主に何方《どなた》なのでしょうね」

「う」

流護は思わず呻いた。

「どうもアリウミ殿は、神詠術《オラクル》の使い方を忘れてしまってることを悲観してるようにも見えませんし、今ひとつ信仰心が薄いように思います。祈りを捧げてる姿も見たことがありませんし」

信仰心が薄いも何も、そんなものはない。

しかし、それはこの世界の人間に……特にクレアリアに言うことは絶対にできない。

神を侮辱しただけで罪になる世界なのだ。信心深いこの少女に迂闊なことを言おうものなら、斬りかかられてもおかしくはない。

冗談でも「俺が神だ!」などとのたまえば、さぞ大変なことになるだろう。

「あ、まーなー……忘れてるからなー、はは。……多分ほら、格闘の神とか……」

「いません、そんなの」

クレアリアがジト目になる。

「記憶を失うと、信仰心までなくしてしまうのでしょうかね……」

「生まれたばっかの子供みたいに、まっさらなんだよ俺は……」

「……まさかとは思いますが。異端者などでは、ありませんよね」

そこでタイミングを見計らったかのように、雨が降り始めた。あ、と声を漏らしたクレアリアは窓の方へ向き直り、両手を(そのぺったんこな)胸の前で合わせて祈り始めた。

お、おおナイスタイミング。水の神様ありがとう、と流護は信じてもいない神に心の中で感謝を捧げる。

雷が鳴り響き、雨が降りしきる馬車の外。そんな大荒れの天候へ向かってありがたそうに祈りを捧げるミアとクレアリアを見て、流護は文化の違いをしみじみと感じた。

レノーレは変わらず本を読んだまま。自分の崇める神でなければ基本的には関係ないようだ。

しかしそのあたりも個人差はあるようで、特に信心深い人は朝に祈り昼に祈り夜に祈り、雨が降っては祈り風が吹いては祈り、と忙しいらしい。クレアリアでもそこまではしない。

――と。

ピカッと瞬く夜空を見て、流護はハッとした。

「そうだ。雷で思い出したんだけどさ」

祈りを終えた二人が顔を向ける。

「結構前にさ、空が一瞬だけ昼間みたいに青く光るのを見たんだけど……あれって何なんだ?」

結構前に、などとぼかしたが、はっきりと覚えている。ベルグレッテを抱きしめた夜のことだからだ。

暗殺者の件が片付き、城へ戻る彼女の馬車を見送った後、空が青く光ったのだ。

……抱きしめたことは当然、いや特に絶対、ミアとクレアリアには言えないが……。

二人は、んー……と考えるような仕草を見せ――

「あ。『神々の噴嚏《ふんてい》』かな?」

ミアがクイズに答えるかのように手を上げた。

「何だそれ。カッコよさげな」

「……『神々の噴嚏』。正体不明の大規模な発光現象。ジューピテルの雷光とは違い、音を伴わない。発光色は必ず青。観測の結果、夜だけでなく昼間も発生していることが分かったが、昼間はその明るさのため確認するのは困難とされている。特に規則性なども見られない。そのため、神々による気まぐれな噴嚏と考えられている」

レノーレが本に目を落としたまま、教本から抜き出したかのように答える。……ていうか話聞いてたのか。

「『ふんてい』ってのは何だ?」

「……くしゃみのこと」

レノーレさんは辞書いらずだった。

「神様のくしゃみ……か」

流護は窓越しの夜空を見上げる。雷光が煌き、とめどなく雨を注がせる夜空。

今は神様も忙しそうだし、くしゃみをする様子もなさそうだな、なんてことを思う現代日本の少年だった。