王都の夜景が一望できる、見晴らしのいい高台。

吹きつける風は、昼の神たるインベレヌスが去ってなお熱気を帯びており、眠るには息苦しい夜となりそうだった。

転落防止のために設けられた柵へと身を預け、闇の中に瞬く街灯りを眺めることしばし。

ふと、背後から低い声がかかった。

「ここにいたか、ディーマルド」

ゆっくりと振り返れば、同世代らしき男が一人。

痩せぎすの長身を覆う濃紺色のマント。肩のあたりまで雑に伸ばした茶色い髪。右頬には縦に刻まれた大きな切り傷の痕。痩せこけた頬はどこか疲れを滲ませているように見えるが、その眼光は鋭く、常人ではありえない物々しい雰囲気を漂わせていた。

「リーダーか。他の連中は?」

「散々に騒いでいたが……潰れて寝ているよ」

傷のある男――主導者たるその男は、ディーマルドへ向かって何かを放り投げた。

今は黒装のガントレットを身につけていない。受け取って、手中のそれをまじまじと見つめる。小さな瓶詰めの菓子だった。

「これは?」

「王都の土産菓子だそうだ。旨いものではないな。やはり、野蛮なレインディール人の感性は理解できん」

ディーマルドは瓶の蓋を開け、小石のような粒を口の中に放り込んだ。

「……ふむ。嫌いじゃねえな」

菓子を味わいながら、ディーマルドは夜の街並みへと視線を戻す。そこかしこに浮かび上がる、生活の灯火。

「嫌いじゃ、ねえ」

――活気に溢れた、この街が。

街の景観は美しく、人々も実に生き生きとしている。

例えばつい先日、酒場で出会った威勢のいい少年。さすがは武勇を重んじる国とでもいうべきなのか。あの若さにして、神詠術《オラクル》を盲信せず自らをあそこまで鍛え上げているとは大したものだった。思わず、本気で闘ってみたいと思ってしまったほどだ。

ふと、脳裏に甦る。

山間の村で過ごした日々。ゲイルローエンを始めとした、暖かな人々。国なんて関係ない。

分かっている。誰が悪い訳でもない。

悪は、あの常軌を逸した怨魔だったのだと。

「……フ、では止めにするか?」

まるで心情を読んだかのような言葉。右頬の傷痕を撫でながら空々しく言う主導者に、ディーマルドは肩を竦めて答えた。

「そこで同意するとでも?」

「フフ。迷いは死に繋がるぞ」

「――無いさ」

迷いも、本懐を遂げず自分が死ぬことも。

死ぬのは、あの男だ。必ずこの手で、殺してやる。

「フ……頼もしいな、王者《カンピル》」

「おっと、やめてくれよリーダー。双拳武術《ピュジライズ》なんてのは、所詮は競技《スポーツ》にすぎねえさ。それに今の俺は、ただの……」

ただの、薄汚れた復讐者。

「……待ってろよ、アスター。もうすぐだ」

男は夜空を仰ぎ、誓うように告げる。

この復讐劇。神は同意しないのだろう。天を覆う闇に、巨大な夜の女神の姿はなかった。

そんなディーマルドの思惟《しい》を読み取ったのか、

「問題ない。神は祝福せずとも、このジンディム・トルストイが全力を尽くす」

マントをばさりと翻し、主導者は――ジンディムは歩き出す。

「勝つのは、我等――ノルスタシオンだ」

翌日、朝七時半。

学院に一泊したリーフィアと、王都へ戻るベルグレッテを見送るため、流護とミア、クレアリアは校門前へ集まっていた。

「うう……もうお別れかぁ」

「でも、ゆうべは楽しかったですっ」

名残惜しそうなミアと、笑顔を見せるリーフィア。

昨夜、女子四人はリーフィアの部屋へ泊まって楽しく過ごしたようだった。

ミアの髪がバンドのヴォーカルでもやるのかというぐらいにボサボサになっているのが気になる流護だったが、寝癖ではなく何度かリーフィアの風に煽られた結果らしい。

ほどなくして昨日のごつい武装馬車が到着し、ベルグレッテとリーフィアが乗り込んでいく。行き先は同じ王都だ。

そうして、出発する馬車の中から手を振る二人を見送った。

「はぁ……行っちゃった。寂しくなるのう」

「ミアはまずその髪を何とかしましょうか」

クレアリアは懐から櫛を取り出し、爆発しているミアの髪の毛を梳《す》く。

つい先日、学院長に撫で回されてボサボサになったミアの髪をベルグレッテが梳いていたのと同じ光景。やっぱり姉妹なんだな、と流護は妙なところで感心する。

「あ、痛っ! 絡んでるよ! もー、ベルちゃんと違って愛が足りないぞークレアちゃん」

「なら自分でやってください」

櫛を手渡されたミアが、渋々髪をとかし始めた。

「うー……、うわっ、櫛の流れに逆らいよるっ。シャワー浴びたほうが早いかも」

「しかしよくそんなになるな。リーフィアの風すげえな」

その言葉に、クレアリアは軽い溜息をついた。

「リーフィアも……もう少し、力を扱えるといいんですけどね。あの子は自分の力を疎ましく思ってますから。だから力と向き合おうとしない。だから制御できない。……全く。誰もが羨むほどの、神に選ばれし力だというのに」

とうに馬車の見えなくなった街道を眺め、クレアリアはどこか寂しそうに語る。

「けれどそんなことを言うクレアちゃんの眼差しは、妹を見守るように優しげなのであった」

「うるさいです」

「……なあクレア」

「何です」

「クレアはさ、『ペンタ』みたいな力が欲しいとか思ったりするのか?」

「何ですか突然。……まあ確かに、『ペンタ』として生を受けることができれば、さぞかし光栄でしょうが……私にとっては、ベルグレッテというお方の妹であること。これを上回る栄誉はありません」

「え……お、おう」

流護は思わず気圧されてしまった。うむ。シスコンの鏡だな。

「やー、クレアちゃんが『ペンタ』だったらさ、ベルちゃんに近づく男はみんな謎の失踪を遂げそうだよね。すごい勢いで」

「そうですね。楽に邪魔者を排除できそうで良いですね。学院に入れば、特権もありますし」

クレアリアはそう言って、レノーレばりの無表情で流護の目を見る。

「なぜ俺を見るのか」

「いえ、別に」

ああ、クレアリアが『ペンタ』じゃなくて本当によかった。

そんなことを思って立ち尽くしていると、背後から重々しい音が響いてきた。

地面を叩く馬蹄の音と、同じく大地を削る車輪の音。

振り返れば、一台の馬車がこちらへやってくるところだった。無論、先ほどベルグレッテたちを乗せていったような特別仕様ではない、一般の馬車だ。

ベルグレッテたちが向かったのと逆方向から来たということは、ディアレーから来たのだろうか。

門の少し手前で停止した馬車から、見知ったパンチパーマが降りてきた。

「あ、エドヴィンか」

「あん? おー、アリウミじゃねーか。こんな朝っぱらっから、何――」

言いかけた炎の『狂犬』が、顔をこわばらせて硬直する。視線を流護のすぐ後ろへ注いだまま、かすれた声を絞り出す。

「……クレ、ア……リア、さん」

「あら。おはようございます、エドヴィン。朝帰りですか? 元気ですね」

つかつかと歩み出たクレアリアが、満面の笑顔を見せた。

(こ、この笑顔は……ク、クレアさんの営業スマイル……ッ)

戦慄する流護。エドヴィンも、目を逸らして気まずそうに言う。

「……イヤ、まあ……いいじゃねーか、別によォ。誰に迷惑かけてる訳でもねーしよ」

「貴方が昨日いなかったことで、課題授業にてパートナーを組むはずだったジェックに迷惑をかけたと思いますが?」

「あ、そ、そりゃ……悪ィ」

「私ではなくジェックに謝ってください。……それはそれとして。私、エドヴィンは凄いとも思ってるんですよ?」

笑顔のまま、可愛らしく小首を傾げる。

(こ、こき下ろしといて……持ち上げたっ……!)

ゴクリと戦慄する流護。

殴りつけてよろけた相手を、倒れるのは許さんとばかりにアッパーで拾い上げる所業だ。

エドヴィンは……、「そ、そうか?」などと言って鼻の下を伸ばしている! バ、バカ野郎、これは罠だ、戻れエドヴィ――

「――ええ。貴方は凄いです。だってこんな時間に朝帰りしたにもかかわらず、このまま授業に出るんですよね? だって昨日はお休みだったんですもの。まさかこれから部屋へ戻って、今日一日寝ているつもりだったなんて、二日も連続でサボるつもりだったなんて、そんな訳はないはずです」

エドヴィンの呼吸が止まった。

死にそうな顔をした『狂犬』が、流護の方を見る。

らしくない、助けを求めるようなその瞳。今の彼は『狂犬』ではない。捨てられたチワワだ。

しかし流護はただ悲痛な表情で、無言のまま首を左右に振った。手遅れだ。助けられない、と。

「では。教室でお待ちしていますね、エドヴィン」

クレアリアは完璧な笑顔のまま、優雅な動作で踵を返し、学生棟へと歩いていく。

一連のやり取りを見ていたミアがぽつりと言った。

「あたし、たまに思うんだ。男に生まれなくてよかったなって」

「なるほど」

思わず頷いてしまう流護。

「まぁほら、元気出しなよエドヴィン」

おお珍しい。ミアがエドヴィンを励ましている。

「あ? あー……そーだな……、って誰だおめェッ、ミア公か!?」

「え、いま気付いたの!? ひどっ!」

エドヴィンは暴発したミアの頭をしげしげと眺める。

「何だその頭ァ……わざとやってんのか? 鳥の巣かよ……怨魔にいるよな、そーゆーの……」

「な、なんだと貴様ー! チリチリの頭したエドヴィンにだけは髪のこと言われたくないもん! もー、エドヴィンなんて心配してソンした!」

ミアは当然ながらおかんむりになってしまい、ぷんぷんと擬音を出しそうな勢いで遠ざかっていった。

疲れた顔でそんなミアを見送りながら、エドヴィンが思い出したように言う。

「おー……、そーいやよ、アリウミよ」

「ん?」

「俺ぁ昨日ディアレーにいたんだけどよ。俺の仲間がちょっと前に、見慣れねー変な奴に『ディノがいつ釈放されるか知らないか』とか訊かれたらしくてな」

「ディノのことを……?」

「ああ。何だか馬鹿丁寧っつーか……イン、キン? とにかくイケ好かねー野郎だったらしいぜ」

「慇懃無礼って言いたいのか?」

危うく大間違いだ。

「おう、それだそれ。とにかくよ、ディノの野郎ってのは元々、色んな街を転々としてんだが……ディアレーでそんなコトを聞いてくるってこたぁ、こないだのミア公の件を嗅ぎ回ってる奴なのかもしれねぇ。気ィつけといた方がいーぜ」

「そうだな……分かった。サンキュな」

流護は緩みかけていた気を引き締める。

レドラックファミリーも、『サーキュラー』も壊滅した。

ディノは現在、城で強制労働に従事している。そろそろ釈放される頃合ではないだろうか。

あの件の黒幕たるレドラックは行方不明のままだ。しかも、あの男は川に落ちただけ。生きている可能性は非常に高い。

ミアが学院にいる間は安全なはずだが、絶対はないと思って行動すべきだろう。……もっとも全てを失ったレドラックには、もう何もできない気はするのだが。

流護は空を見上げる。どんよりとした、曇り空。

一雨きそうだなと思いつつ、少年は仕事の準備をするべく学生棟へ向けて歩き出すのだった。