薄暗い謁見の間。

一人になったアルディア王は、大きく息をついて首を回した。ばきばきと心地よい音が響く。

そこへ、

「お疲れ様でした、陛下」

照明の届かない闇の中から、優しげな声がかかる。

「……おう、オルエッタか」

影から生まれ出るように現れたのは、一人の女性。白のドレスに黒いケープを羽織り、絹糸のごとき長い白髪《はくはつ》を揺らしている。闇に浮かぶ幽玄なその姿は、まるで美しき亡霊。

『銀黎部隊《シルヴァリオス》』副隊長、オルエッタ・ブラッディフィアー。

音もなく歩いてきた彼女は、豪胆な王から滲み出た疲れの色に気付いたようだ。優しい笑顔で主を労る。

「ふふふ。肩をお揉みしましょうか?」

「おぉ? 肩なら、俺よりオルエッタの方が凝ってんじゃねぇのかぁ? ベルほどじゃねえが、たわわな果実を実らせやがってよぉ」

アルディア王が両手をわきわきさせながら言うと、慈愛に満ちた微笑みをたたえていたオルエッタがサッと無表情になった。

「……すまん」

「お分かりいただければいいのです。はぁ……姫様にはいずれ、性的な言動に関する法について、制定する協力をしていただかないとですね~」

「な、何だそりゃ。性的な言動ってお前……おじさんの挨拶みてえなモンだろうがよぉ」

「女性の立場からすれば、嫌なものは嫌なのです。という訳で、例え陛下であっても、法に抵触したなら裁かれていただきます」

「するってぇとアレか。俺は性的な言動で王座から転落した男として、後世まで語り継がれることになるワケだな」

「教本にもそう記されるでしょう。恥ずかしすぎますね。何より姫様がお可哀相です。そうならないよう、お気をつけくださいね」

後ろ手を組み、諭すような口調でオルエッタが言う。間を置かず、どこかジトリとした目を主へ向けた。

「ところで……良かったですね。思惑通り、リューゴ・アリウミくんを引き込むことができて」

「何だぁおい、トゲのある言い方じゃねえか」

「いいえ、別にそのようなことは」

そもそも、必要なかったのだ。

今回のテロ。残留した兵士たちや数人の『銀黎部隊《シルヴァリオス》』のメンバー数人、そして学院長だけで、充分に対処できるものだった。

レインディールとは、断じてあの程度の賊たちに揺らぐ国ではない。

しかし王は、あえてガーティルード姉妹を使い、流護を呼び寄せた。最初から、彼を兵として引き込むつもりで。そのための、活躍の場まで用意して。

そして少年は、民衆や騎士たち数百名が見守る中、噂通りの活躍を見せた。

まともに神詠術《オラクル》の使えない者が兵になるなど……ましてや二つ名を授かるなど通常はありえないが、充分すぎるほどの実力を披露した以上、反発する人間は少ないだろう。

ノルスタシオンは、完全に利用されたのだ。

有海流護を引き込むための餌として。アルディア王の力を誇示するための道化として。

箱庭に侵入した獣たちは、こうして巨大な獅子に飲み込まれ糧となる。

「はァ~……」

「おや、珍しいですね。そのような溜息をおつきになって。全てが陛下の思惑通りにいったはずですのに」

「何だぁオルエッタ、やけに突っかかるじゃねぇか。あぁもしかしてお前さん、あの日」

「………………」

「すまん」

巨大な王は、ゴホンと咳払いをして仕切り直す。

「いや……何だろうな。思い通りにいったかと言われれば、何とも言い難いところだわな。俺はよ、大か小かを選ばなきゃならねえ場合、大を取る。大も小も取れるような器用さはねえ。迷ってる間に、全てを失っちまうのはゴメンだ。けどよ……十五年前、最小限の被害として切り捨てた『小』が……『ラインカダルの惨劇』が、今回、二百の民衆たちを危険に晒す刃としてハネ返ってきやがったんだよな。難しいモンだぜ」

難しいよ、と王はもう一度呟いた。珍しく、弱気にも聞こえる声で。

「と思いきやそれすら隠れ蓑で、ウチの『ペンタ』に手ぇ出すアホが出てきやがったって訳だ。久しぶりだぜ、こんなのはよ」

「顔が笑ってますよ」

オルエッタに指摘され、おっといけねえ、とアルディア王は表情を引き締める。

「ところで……ノルスタシオンの裏にいるのは、間違いなく例のキンゾルという老人でしょう。現在、『拘金《こうきん》』になっていますが……良いのですか、そのままで?」

オルエッタの顔から優しげな笑みが消え、わずかに双眸が細まる。

それは、静かな怒り。白い闇とでも表現すべき、恐ろしいほど玲瓏《れいろう》な。

拘束――などではない。命じられれば、今すぐにでもキンゾルの首を獲りに行くという意志の表れ。

他国の財産である『ペンタ』に手を出すという行為は、もはや宣戦布告にも等しい。

過去の歴史を紐解けば、実際に『ペンタ』の存在を巡って戦争へと発展した国々の物語は枚挙に暇がない。

テロを隠れ蓑にした、超越者の強奪行為。

この件とて、仮にノルスタシオンが現在でも国に所属している組織だったなら、戦争になっても不思議はないような事案だった。

キンゾルは、レインディールという国そのものにケンカを吹っかけたのだ。

実際、キンゾルがどこかの国の機関に所属する人間であるのなら、間違いなく国家規模の揉め事に発展する。

そのキンゾルは現在、『拘束対象の賞金首』――通称『拘金』という扱いになっていた。

これはその名の通り、対象を殺さずに確保することで賞金を出す仕組みだ。腕に覚えのある詠術士《メイジ》や傭兵、冒険者、荒くれたちが名乗りを上げ、こぞって賞金の獲得を狙う。対象となった者は、四六時中その身柄を狙われることになる。心休まる時間が訪れることはないだろう。

兵士たちにとっても捕縛対象の犯罪者であることに変わりはないが、その優先度は低くなる。賞金稼ぎたちに任せ、他の任務を優先するのが決まりだった。

オルエッタは、そのことに対して疑問を呈していた。

ここまで舐めた真似をした相手に、そんなぬるい対応のままでいいのかと。騎士たちが直々に、鉄槌を下すべきではないのかと。

「……そのじいちゃんとやらの使う、『融合』……なぁ」

巨大な獅子は笑う。白い歯を剥き出しにして。

「面白そうな技術だと思わねぇか、オルエッタ。だから、このままでいい。今のところは――『拘金』のままで、な」

邪悪にすら見える焔武王の笑みを目の当たりにし、オルエッタは悟る。

「…………、」

飲み込むつもりだ。

この巨大な獅子は、キンゾルを――その技術を、言葉通りの意味で糧とするつもりなのだと。

「……ところで、悪そうなお顔をされてるところ恐縮ですけど。ベルグレッテ、少し落ち込んでいましたよ。あまり苛めないであげてくださいね」

「あぁ? 何の話だよ」

「今回はずっと焦ってばかりで、空回ってしまったって。陛下がリューゴ・アリウミくんを餌にするから動揺しちゃったんですよ。恋する乙女の気持ちを弄ぶのは、感心しませんね~」

ベルグレッテは今回、思考が上手く働かず、随分と空回りしていたようだ。

襲撃者をオプトと決めつけての、軽率な行動。ブランダル戦における、戦術の組み立ての失敗。

オルエッタと夕食後に顔を合わせたときも、やることが全部裏目に出てしまった……としきりに反省していた。

「がははは! ま、ベルならそんな経験をも糧にするだろうよ。うむ、青春青春」

忠告しても無駄とは思っていたが、デリカシーのない国王はやはり豪快に笑うのみだった。

気のせいかと思うほど控えめに、ドアをノックする音が聞こえた。

「ほい?」

宛がわれた部屋でストレッチをしていた流護が顔を向けると、

「えと……ベルグレッテです」

どこか少し沈んだような、彼女の声。

ドアを開けて迎えれば、声と何ら違わぬ表情の少女騎士が立っていた。

「おう。どした、そんな顔して」

「……うん」

ベルグレッテは一瞬だけ迷うような素振りを見せて、

「聞いた。明日、任命式だって」

「おう……そうか」

「なっちゃったんだね、遊撃兵」

「なっちゃった」と。そういうベルグレッテの顔は、泣き出す寸前のようにも見えた。

彼女の不安はもっともだ。

現在、死亡率百パーセント。まるで何かの生贄とすら思える職務。けれど、

「死なねえよ」

流護は、ただそう呟いた。

「うん……」

「俺だってな、自信があるからこそなろうと思ったんだ。任せろって。でも楽観も油断もしてないし、気合入れてやってくさ」

「うん」

自信があるかといわれれば、何ともいいがたいところではある。が、ない訳でもない。どっちなんだ、と自分でも思ってしまう流護だったが、己の力がこの世界で特別なものであることも事実。

そこでベルグレッテは、意を決したように顔を上げる。その瞳には、真摯な光が宿っていた。

「困ったことがあったらなんでも言って。無理したり、無茶な真似はしないで。ね」

「お、おう」

いきなり気の大きいことを言ってしまったばかりの流護は、思わずたじろぐ。目を泳がせていると、ベルグレッテが右手を差し出してきた。

「……じゃあ、明日から改めてよろしくね。『拳撃《ラッケルス》』のアリウミリューゴくん」

「ああ、こっちこそよろしくな。ベルグレッテ先輩」

流護はその手を握り返した。

どちらともなく離し、何ともくすぐったい空気が漂う。

「えーと……じゃあ私、部屋に戻るね」

「お、おう。あ、じゃあ送ってくよ」

「え? ううん、すぐそこだし……」

「いや、じゃあ俺、トイレ行きたいんで、そのついでってことで……」

「う、うん……」

どちらともなく、並んで歩き始めた。

流護は両手を頭の後ろで組みながら、未知の仕事に思いを馳せる。

「んー……遊撃兵なあ。どんな仕事やらされるんかな。危険な任務ってのは、具体的にどう危険なんだろ」

アルディア王によれば、遊撃兵というのは建前のようなものだど言っていたが。

気軽に問う流護へ、ベルグレッテは対照的に沈んだ表情で答える。

「うん……怨魔の討伐任務はもちろん……山賊の駆除とか、潜入捜査とか、調査任務とか、希少な資源を持ち帰るとか……本当に色々よ」

「なるほどな……」

しかし流護は、不安と同時に気合の入る思いでもあった。

神詠術《オラクル》というものに対して疑念を抱いているアルディア王。その王が目指す夢。

ある意味で流護に……地球人に近い感性を持っているのではないかと思える王。そんな男の目指すものが何であるのか、わずかながら興味を刺激されていた。

……もしかしてこれも、上手く乗せられているのだろうか?

「あ、そういえばさ」

危険、で流護は思い出した。

「あのブランダルって奴どうすんだ? 絶対死んでねえよな。簡単に諦める訳ねえだろうし、しばらくリーフィアは家に帰れないってことか?」

ブランダルの能力については、すでに流護も聞いている。

複数属性の神詠術《オラクル》を使いこなし、ミディール学院三位の『ペンタ』、オプトの属性である吸収をも駆使する男。

借り物の力かもしれないが、傷を癒す術にも長けているという。死んでいないどころか、下手をすれば今頃、昼間の戦闘のダメージなど回復してしまっているかもしれない。

詠術士《メイジ》の攻撃の要である神詠術《オラクル》を『吸収』することができ、回復にも秀でている。回復する隙を与えないよう強力な術で仕留めたいが、そもそもその強力な術を吸収、そのまま返されてしまう恐れがある。誰にとっても闘いづらい相手といえるだろう。

流護としては、「早速来たか」という気持ちだった。

他人の魂心力《プラルナ》を奪い、我が物とする技術。実際は、魂心力《プラルナ》どころではない。神詠術《オラクル》までをも奪うという技術。

そんな技術があるのなら、どこでどう禁じられようとも、必ず使う者が現われる。

その技術を使ったレドラックは神詠術《オラクル》の才能に恵まれていなかったという。おそらくそのせいで、レドラックには魂心力《プラルナ》の増強という効果しか現われなかった。自分の術も満足に使えない人間が、他人から奪った術を使えようはずもない。

しかし流護はここへ至って、ミアの件でレドラックと闘った際に覚えた違和感の正体をようやく理解していた。

レドラックと両手で掴み合ったときのことだ。流護はレドラックが咄嗟に発動させた術で両手をかすかに焼かれ、手を放してしまったのだが――後に聞いた話では、レドラックの属性は風だったという。それなのになぜ、あんな焼かれたような痛みを感じたのかと不思議に思っていたのだが――かすかに、人から奪った神詠術《オラクル》の片鱗が発動していたのだろう。

「たしかに、あのブランダルって男は厄介ね……」

ベルグレッテは悔しそうだった。

事実、悔しいに決まっている。神から授けられたとされる神詠術《オラクル》。この世界での……レインディールにおける人としての証――誇りでもあるそれを殺して奪い、我が物とする。これほどの侮辱はないはずだ。ブランダルを逃がしてしまったベルグレッテやクレアリアの心中は、察してあまりある。

「もしかすると……ブランダルに対応するための任務が、さっそくリューゴに来るかもね」

笑顔。でも少し、悲しそうな……悔しそうな顔で。

しかし実際のところ、隙のないように思えるブランダルだが、流護にとっては特に不利な相手ではない。『吸収』など、そもそも神詠術《オラクル》を使えない流護には何の関係もないのだ。いつも通り殴り倒せば解決である。

「まあ……そう落ち込むなって。闘いには相性ってのがあるだろ。確かに俺なら、奴には有利だと思うけど」

「うん。分かっては、いるんだけどね……。あ」

少しうつむいて歩いていたベルグレッテが、ぱっと顔を上げた。

「ね、リューゴ。今度、稽古つけてくれないかな?」

「え?」

「これから同僚になることだし、リューゴの手が空いてるときでいいから。私、もっと……もっと強くなりたい」

「え、まあ……うん、ベル子は充分強いと思うけどもさ」

その言葉に、ベルグレッテはわずかにジト目となる。

「まーた、そういうお世辞言うんだから」

「いやいや、お世辞じゃないぞ。神詠術《オラクル》に関しては俺は何も言えないけど、剣技は相当なもんだし。ベル子がドラウトローとかデトレフとかブランダルに勝てないのは、単に相手の方がもっと強かったってだけの話だ」

「……う、ほんとにお世辞じゃなかった……」

「命のやり取りに直結することで、お世辞なんて言えねえって。ただ……ベル子が修業を重ねていけば、そいつらなんて目じゃないほど強くなれるとも思う」

その言葉に、ベルグレッテが驚いたように目を見開く。

「……そっか。それぐらい、強くなれたらいいな」

「なれるよ。まああれだ、俺も正直、組手の相手が欲しかったし……今度、一緒に稽古すっか」

「う、うん!」

眩しすぎるベルグレッテの笑顔から、流護はスリッピング・アウェーばりの動作で顔を逸らす。

まああとあれだし。ベル子と格闘戦の稽古なんてすれば、いい匂いしそうだし、何かの拍子でこう、胸とか――……、なんてことは考えてないっすからッ、オイドン、格闘家ッスからッ……!

いい精神修業にもなりそうだった。

「……今回、私……空回りばっかりしちゃってたし……しっかりしなきゃ」

「そうそう毎回、何もかも上手くいくもんでもないだろ。気にすんなって。俺だって今回、爆弾のトリックなんて全然分からんかったし、もう完全に蚊帳の外だったぞ……。いやまあ、神詠術《オラクル》が絡んできた時点でお手上げなんだけどさ。だからその……」

一息置いて、言う。

「俺も神詠術《オラクル》とかは全然分からないし、だから……これからベル子と一緒に、お互いに足りない部分は補い合いながら、助け合いながら、闘っていけたらなー、とか思うんだけどさ」

「! う……、うん。そうだね。よろしくね……!」

「お、おう」

「うんっ……」

「…………」

妙な沈黙が場を支配した。むずむずする。

「そ、そういやさ。何か、悩んでることでもあったのか? 確かに、俺が現場着いたときとか沈んだ顔してたし……」

「え? そ……それは……」

「それは?」

おうむ返しに問うと、ベルグレッテは少しだけ頬を膨らませた。

「……もう、知らないっ」

「ええー」

なぜ少し怒った風になってしまうのか。女心は難しい。

そうして歩くうち、二人はベルグレッテの部屋の前へと到着した。

部屋へ入ろうとした少女だったが、思いとどまったように足を止める。

「ベル子?」

「……リューゴ。訊いてもいい?」

「ん?」

「どうして、遊撃兵になろうと思ったの?」

流護は思わず返答に詰まった。

「ん、えーと……まあ、理由はいくつかあるんだけどさ……」

「言いたくない?」

「そういう、訳じゃ、ねぇんだけど……ちょっと、言いづらい、かな? つうか、まじでなろうと思った理由は結構いっぱいあってさ。話すと長くなるぞ」

最初に浮かんだ理由。

ベルグレッテの近くにいたいからと。

そんなことを言えば、真面目な彼女は怒り出してしまうかもしれない。それとも、喜んでくれたりするのだろうか。

「そっか。……いつか、教えてくれると……嬉しいな」

「あ、お、おう」

「それじゃ、おやすみ。また明日ね」

「ああ……おやすみ」

花のような笑顔を残して。

部屋の扉が、閉められた。