――遡ること二ヶ月ほど。
アルディア王の下への帰還予定日は、星遼《せいりょう》の月の二十一日。本日は蒼天《そうてん》の月、七日。約十五日の期限超過である。
天轟闘宴への出場を決めた時点で開き直ったつもりでいたが、あまりに遅れすぎて妙な度胸が据わってくるほどだった。
ともかく、天轟闘宴を制した流護の要望によって選りすぐりの医師を手配することができ、ミョールの治療は無事成功。
ゴンダーや宿の親父さんに見送られ、長らく滞在したレフェを発ったのが二日前のこと。
流護たち三人を乗せた馬車は国境を越えて山中を進み行き、ミョールの故郷であるケルリア村に到着したところだった。さすがに、病み上がりの彼女を一人で帰らせる気にはならなかったのだ。
馬車を降りると、広大で瑞々しい山の緑が流護たちを迎えた。
「おお……」
「すごい、きれい……」
流護とベルグレッテは揃って景色に見入る。
緑に抱かれた森の集落、とでも表現するのが相応しい。村はかなりの面積があり、奥には大きな湖が陽光を照り返しているのが確認できる。
「二人とも……本当に……本当に、ありがとね」
そう言って申し訳なさそうにうつむくミョールは、少しやつれたようにも見えた。長い入院生活も原因の一つではあるだろう。
肩まで伸ばした金髪と、垂れ目がちのまぶたから覗く翠緑色の美しい瞳。元気の塊みたいだった彼女は、出会った当初と比べて別人のように大人しくなってしまった感があった。
「本当に……ありがと」
どこまでも懺悔するような彼女に、流護は明るく笑って返す。
「もう、何回目すか。言わないって約束すよ」
「あ、うん……」
それでもやはり、彼女は縮こまったように頷いた。
無理はないのかもしれない。仮に流護がミョールの立場だったなら、同じく縮こまってしまう気がした。
旅先で少し行き会っただけの人間が、大金を支払って自分を助けたうえ、妹の治療費まで捻出しようとしている。何か裏があるのでは、と思われてもおかしくないのではなかろうか。
……正直なところ、ここに至るまでの馬車内でも、出会った当初ほど会話は弾まなかった。ミョールとの間に、わずかな距離感ができてしまったようにすら思える。彼女自身まだ本調子でないため、以前のようにはしゃげないというのも理由の一つではあるのだろうが……。
「ほら二人とも、こっちこっち! せめてお茶ぐらいは飲んでいって!」
しばらく村に泊まっていってはどうかと誘いを受けていたが、そこは丁重に断った。さすがにもう帰らなければまずい。
しかし、そうして厚意を断ってしまったことで、余計に気を遣わせてしまった感もある。
このまま別れてしまうのは、どうにも気分が晴れない。
「……ベル子」
「うん?」
「俺……ミョールに……言おうと思う。えーとほら、本当のこととか、色々と」
少し面食らった表情を見せるベルグレッテだったが、すぐに「ん、分かった」と微笑みながら頷いた。
ほとんど思いつきで決めた、気持ちばかりが先走っている言葉足らずな提案。
それでも察してくれるよき理解者にただただ感謝しながら、流護は頭の中で考えをまとめ始めた。
まず驚いたのは、ミョールの妹であるルティアが姉に全く似ていないことだった。
年齢は流護たちと同じ十五歳。肩の長さで切り揃えた美しい金髪と翠緑の瞳は確かに同じだが、大人しそうな顔立ちと控えめな性格は、まるで正反対といえる。
例えば、ルティアがミョールと同じような露出度高めの衣装に身を包んでいる図が想像できなかった。
まあこんな気弱そうな子があんなエロい格好してたら、それはそれで……と心中で頷く流護だが、今はそのような姿を見ることも叶いそうにない。
足が不自由なルティアは、部屋の奥のベッドに寝かされていた。長らく自力で歩いていないためだろう、その両脚は驚くほど細い。例え治療が成功したとしても、歩けるようになるまでには長期間のリハビリが必要となるはずだ。
このケルリア村が山賊に襲われたのは四年前。当時十一歳だったルティアまでもが――こんな大人しそうな少女までもが死に物狂いで闘い、その結果こうして消えない傷を負ってしまった。何だかんだとこの世界の過酷さを肌で感じてきた流護ではあるが、未だにその地獄は想像しがたい。
互いに自己紹介を終え、四人で談笑する。
「えと、ベルグレッテさん、そのときのお話を詳しく聞きたいです……!」
「ん、いいわよー。そのときはね、私の妹が――」
ルティアは都会に憧れているらしく、夢中になって少女騎士の話に耳を傾けていた。
微笑ましげにその様子を見守っていたミョールが、やや名残り惜しそうに立ち上がる。
「えっと……二人とも、やっぱり泊まっていく気は……」
「いやー、本音を言えば、一晩ぐらいお世話になりたいんだけど……」
自然は美しく、空気も澄んでいて心地いい。湖に入ってみたいなあ、という思いもある。正直、今さら帰還日が一日や二日前後しても変わらない気もする。
が、それでも早く帰るための努力はすべきだろう。アルディア王に渡さなければならない大事な文書を持ち歩いているのだ。
「早いとこ城に戻らないと、もうどーなるか分からんとこまで来ちゃってるっつーか……」
「ええ……」
ベルグレッテも申し訳なさそうに目を伏せる。釣られるように、ルティアが「残念です……」と肩を落とした。
「……そっか。ま、しょうがないよねー……。それじゃあたし、馬車呼んでくるね。西にある街から呼ぶんだけど、この村に来るまでに三時間は掛かるから……今から呼ばないと、夜になっちゃう」
「呼んでくる……って、どっか行くのか? 通信の術で呼ぶんすよね?」
「うん、通信は通信なんだけど……」
そう言いながら、ミョールは窓の外を指差す。その先には、湖の周囲に一際高くそびえる丘があった。
「あそこから呼ぶの。外に通信飛ばす時は、あの場所が一番『通り』がいいのよね」
携帯電話の電波みたいなものか。
言い残して部屋を出ていこうとするミョールの背に、流護は慌てて声をかけた。
「あ、俺も行っていいすか? ちょっと、村ん中歩いてみたいっていうか」
「え? うん、まあ……別にいいけど……」
彼女は、困惑気味に首肯した。
ゆっくりと、長閑な村道を行く。
何となく会話もなかった。
並んで歩いているが、二人の間にも少し不自然なほど空きがある。
「なんだいミョールちゃん! ルティアちゃんの治療費稼ぐなんて村飛び出して、若い兄ちゃん引っ掛けて帰ってきたのかい? 金持ちの良いトコの坊ちゃんなのかい?」
「いや、そーゆーんじゃないから!」
通りすがりの村人に冷やかしの声をかけられつつ、緑豊かな林道を抜けること十分ほど。やや急勾配な草原の坂を上り、その場所に到着した。
「うおー……こりゃすげー……!」
絶景といえるだろう。眼下には、水底や魚影が見えるほどの澄んだ湖。その周囲に広がる集落の全容も見渡せる。ここは、このケルリア村で一番高い場所なのだ。
「えっと……じゃあ、馬車……呼ぶね」
「あっ、はい」
思わず四つん這いになって湖を見つめていた流護は、ややみっともない格好で振り返りながら返答した。
ミョールが馬車を手配し終えて、二人は無言で風景を眺める。
「……よし。ミョール、ちょっと聞いてほしい話があるんだけど」
そうして流護は、率直に切り出した。
「あのさ。実は俺……この世界の人間じゃないんだ」
ミョールの反応はといえば、不思議そうに小首を傾げるのみだった。
そういやベル子も似たような反応だったっけ、と当時のことを思い出して現代日本の少年は苦笑する。
――順を追って、丁寧に説明した。
まず、記憶喪失が嘘であること。
このグリムクロウズとは異なる、全くの別世界からやってきたこと。
だから、神詠術《オラクル》が使えないこと。
そしてなぜか、この世界で異常な身体能力を発揮できること……。
「……ややー、まあそう言われると、リューゴくんがちょっと風変わりなのも納得できるかな? って気にはなってくるけど……」
やや引き気味ではあるが、理解を示そうとしてくれているようだった。
「だから……俺、この世界の人とは価値観も違うんすよ。『あっち』じゃ普段生活してて、人の……他人の死に触れることなんてまずない。人によっては一生、暴力沙汰とは無縁なままでいることもできると思う。本当にこの世界と比べたら、信じられないぐらい安全な世界なんだ。人と人で殺し合うなんて、もうとんでもなく大それたことで。だからほら、俺は……野盗をあっさり殺したミョールに、すげえびっくりした」
「あ……」
レフェへ向かう道中のダスタ渓谷にて、一行は野盗に襲われた。結果として難なく撃破したが、敵は全員がミョールの手によって死亡している。
あのときのやり取りを思い出したのだろう。納得がいったようにミョールは瞠目する。
「ミョールの言葉には考えさせられたよ。この世界じゃ、あっちの考えなんて通用しない。自分自身がまだまだ甘ちゃんだってことも思い知った」
空手や街のケンカなどに明け暮れた流護であっても、本質はそう変わらない。命のやり取りになるかも、なんて考えたりすることはまずない。
「まじで、この世界の人じゃ想像もできないぐらい平和なんだよな。だから、仲間が粋がった奴にやられたなんて話になれば、そりゃもう大事件なんだ。どこのアホだ、きっちりカタつけたるぞコラァ、って話になる」
平和なもんでしょ、と笑いながら。
「だから魔闘術士《メイガス》の連中にとにかくムカついて、何とかしてブッ倒してやろうって思った。んで自分には『なぜか』力もある訳だから、じゃあ天轟闘宴に出ちまえばいんじゃね? って思って。だからたまたま、そういう状況が上手く揃ってただけなんすよ。自分にできそうだったからやっただけで……騎士みたいに、何としてもミョールを救うぞ、って信念があった訳じゃないっつーか、あー……、上手く言えねーけど……」
頭を掻きながら言い淀めば、ミョールは掛け値なしの笑顔で応えた。
「それでも、リューゴくんが私を……私たちを助けてくれたことに変わりはないよ。ほんとに、ありがとうっ」
「……いや……ま、まあ」
照れくさくなった流護は、視線を逸らしながらゴニョゴニョと言い繕う。
「えーと……あれだ。学院にミアって女子がいるんだけど、そいつが奴隷身分になっちまったのを買い戻した時も、ものすげー金使ったし……まあ、今回ぐれえなら全然余裕っつーか」
「へぇー……。女友達が奴隷に落ちちゃって、その子をリューゴくんが買って助けた、ってこと? その子はリューゴくんの奴隷になった、ってこと?」
「……えーと、まあ」
何やら含みのありそうな言い回しに不承不承頷けば、
「そっかそっかぁ。リューゴくんは女友達が自分の奴隷になったのをいいことに、その子に若い欲望の限りをぶつけていると……」
「ほーれ、まーた始まったよー」
予想していた反応を渋面で受け流せば、ミョールもまた悪びれず笑う。
「ったく……んでそいつが、小動物みたいっつか、すごい寂しがり屋なんだ。特にベル子にべったりだから、今頃寂しさのあまりひっくり返って死んでるかもしれん」
流護自身、これほど長くミアと顔を合わせていないのは初めてだった。
「あはは。それじゃ、早く帰ってあげないとだね。どっちにしろ、うちに泊まってる暇はなさそうだったかな」
「ええ……マジすんません」
「いいっていいって。……そいやずーっと気になってたんだけど、『まじ』ってどういう意味? リューゴくん、たまーに言うよね」
「あ」
そう指摘され、初めて気がつく。
「本当、とか本気、みたいな意味かな。俺の故郷で使われてる俗語? みたいな……」
「へー、そうなんだ」
本当に今更ではあるが、流護はこの世界へやってきた当初から息をするようにその単語を使っている。
が、当然ながらこの世界の住人は知るべくもない。
ベルグレッテやミアもこれまで突っ込んでくることはなかったが、聞き流していたのか、方言みたいなものと思って特に何も言わなかったのか。
今にして思い返してみれば、かつてガーティルード家の庭でクレアリアと決闘をすることになったとき、彼女に「時折、意味の分からない単語もさらりと出ていましたしね」と指摘されたことがあった。このように『向こう』でしか通用しない言葉が無意識に出てしまっているのだろう。
「ほいじゃ、そろそろ戻ろっか」
「そっすね」
二人並んで高台を下り始めた。
会話のおかげか、ここへ来るまでの道中とは違って、隣り合うミョールとの距離は近くなっていた。奇妙なよそよそしさは消えたように思える。
素直に話してみて正解だったかな、と流護が安堵した瞬間、
「――リューゴくんっ」
いたずらっぽく呼びかけてくる声と、密着してくる気配。
そして少年の頬に当たった、柔らかな感触。
ふわりと漂う甘い香り。顔や首元をくすぐってくる、さらりとした金髪。
「――――――――」
ん? え? これ、って――
少年が思わず硬直すること一瞬。
その隙に、気配はサッと素早く引いていく。
「……! …………、!?」
そこでようやく我に返った流護が、死ぬほど驚きながら顔を横向ければ、
「びっくり、させちゃった……?」
唇を――たった今流護の頬に触れていたその部分をぺろりと舌で湿しつつ、囁くような声でそんなことを尋ねてくる、年上金髪エロ装備女詠術士(メイジ)の姿。
「び、びび、び、びっくりとかそういう問題じゃねぇだー! な、何してんすかいきなり……!」
口づけされた頬と今さらバクバク脈打ち始めた胸を押さえつつ、思春期の少年は早口でまくし立てる。
「ややー、せめてものお礼の印っていうか、親愛の証っていうか……」
「だ、だから! 俺、そういう見返りとか期待してやった訳じゃねえから……!」
「そーは言うけど、一方的に助けられっぱなしなこっちも居心地悪いんだからー。本当なら妹と一緒になって身体でお礼しても全然足りないぐらいなんだけど、純情さんなリューゴくんはそれも許してくれなさそうだし?」
「あた、あたっ、アタァ! 当たり前じゃないっすか……!」
水着と大差ないこの衣装のまま、ベッドの上で四つん這いになるミョールとルティアの姿が脳裏に浮かび――
「姉妹! ドーン! グワアアァァッ!」
生皮を引き剥がす思いで、その妄想を振り払う。
「ぬっふふふ。ほんとリューゴくんってば、見える『色』の通りなんだね。あんまりにも真っ白すぎて、お姉さん汚したくなっちゃうぞ」
「やめ、まじ、やめ……、?」
息も絶え絶えに理性を保つ流護だったが、そこでふと彼女の言葉に違和感を抱く。
「……見える……『色』の通り?」
ミョールは、人の中に『色』が見えるという特殊な能力を持っている。
大抵の人間は程度の差こそあれ灰色で、悪意を秘めた人間などは文字通りのどす黒さを『見る』ことができるのだという。
それはいいとして、引っ掛かったのは――
「今、真っ白……って言ったすよね。俺、が?」
かつての、ミョールとの何気ない会話が流護の脳裏に甦る。
『リューゴくんたちは、それぞれ綺麗すぎるぐらいの純白と灰色。今までの経験から言って、もうお人好しすぎるんじゃないかってぐらい純粋な色。昨夜あの場にいた誰よりも、澄んだ色をしてた』
「え? うん。あれ、言ってなかったっけ。二人は綺麗すぎるぐらい綺麗な白と灰色。リューゴくんが白で、ベルグレッテちゃんが灰色だよ」
「……あれ、そう、なんすか」
そうなのだ。はっきりと、どちらが何色なのかは聞いていなかったのだ。疑う余地もなく、ベルグレッテが白で、自分が灰色なのだと思っていた。
そんな思いが顔に出ていたのだろう。
「ああ、ベルグレッテちゃんが白だと思ってた? ふふーん、女の子ってのはね、ただ可愛かったりキレイだったりするだけじゃないんだぞー。複雑でムズかしくて分からないものなのだよーリューゴくん。完全無欠の聖母みたいなベルグレッテちゃんだって、きっと心の中では色々と……ぬふふふ」
悪そうに笑うミョールだったが、そこでふと思い出したように首を傾げる。
「そういえば……ベルグレッテちゃんは確かに灰色なんだけど、普通の人とはちょっと違うんだよね。なんていうのかな……純粋な白と黒が混ざろうとしてるんだけど、上手くいかなくて不自然な灰色になっちゃってるっていうか……」
「はあ……」
そう言われても、実際に『色』を見ることができない流護には今ひとつ思い浮かべづらい。
ついでにいえば、ベルグレッテの中に『黒』があるというのも、やはり想像できなかった。それを言うとまた色々とからかわれそうなので、口には出さなかったが。
「リューゴくんがその歳で白っていうのも、実はすっごく珍しいんだよね。まだケガレを知らない小っちゃな子なんかは、同じような色してるんだけど。つまりリューゴくんは、純粋すぎるぐらい純粋な少年ってことよね。あー……お姉さん、色々と教えてあげたくなっちゃうなー」
「やややややめてくださいよ」
ミョールの色っぽい流し目から必死で視線を逸らす。
どうにも流護としては、自分が白だとは考えづらい。こんな風に割と煩悩まみれだし。
「え、えーとあれだ、んじゃ例えば、ゴンダーさんとかルティアはどんな風に見えてるんだ?」
「んー……ゴンダーさんは、まだら模様の不器用な灰色、って感じ。珍しい格好してたけど、根は真面目な人なんだろうなー、ってすぐ分かったよ。ルティアは、淡い灰色。あの子は気弱だから、そういう性格が色を薄めてるんじゃないかなー、なんてあたしは勝手に思ってるんだけど」
「ふーむ……」
なかなか流護が理解するのは難しそうだった。
そこでミョールの表情に、暗いものが影を落とす。
「……村を襲った山賊たちは薄汚れたような黒だったし、あの魔闘術士《メイガス》の連中は……何もかもを飲み込んでしまいそうな、闇の色そのものだった」
「……なるほど。っと、そろそろ行こうぜ。立ち話も何だし」
話を広げたことで、余計な傷口に触れてしまったか。
打ち切るように流し、足を前に進めようとして――
「……!」
再びの甘い香りが、艶やかな金髪の感触が、少年を戸惑わせる。
ミョールが、流護の胸に飛び込んでいた。
「ちょ、ミョール……っ、…………、」
そうして抱きつかれながら、しかし初めて少年は気付く。
密着しているものの、恐る恐るといった様子で自分の胸に当てられている、彼女の細腕。同じく控えめに胸板へと押しつけられている、彼女の額。
それらが、小さく震えていることに。
「……、」
思い起こす。
ミョールが魔闘術士《メイガス》らに痛めつけられた直後、運び込まれた病院での出来事。
『ひっ、いや!』
ふらついた彼女を支えようとした流護に浴びせられた、あの拒絶の叫び。
癒えてなどいないはずだ。魔闘術士《メイガス》によって刻まれた心の傷は、きっと簡単に消えるようなものではありえない。肉体的に回復しつつある今でも、連中を叩きのめした今でも、ミョールを苛み続けている。
「……リューゴくんっ……、あたし、本当に……感謝してもしきれないぐらい、リューゴくんに感謝してる。……なのに……なのにっ……!」
なのに、怖いのだ。
流護に――男に、触れることが。
性的な言動で、以前の調子を取り戻したかのように自分を奮い立たせて。近づくことすら怖いという気持ちを必死で堪え、頬へのキスや密着することで感謝の情を示し。
「……、」
ゆっくりと慎重に、流護はミョールの両肩へ手を伸ばす。
触れた瞬間、彼女は目に見えるほど大きくその身を震わせた。それでも苦痛に耐えるかのように、そのままでいる。
「ちが、うの……だい、じょうぶ。あたし、大丈夫だから――」
泣きそうな声で呟くミョールの身体を、流護は優しく引き離した。
「無理はよくないっすよ」
少年は目線を外し、頬を掻きながら言い連ねる。
「……ミョールの感謝の気持ちはすげー伝わったっつーか……正直かなりグッときたっつーか……だから、あんま無理しないでほしいっつーか……」
ぼそぼそと言えば、ミョールは目尻に浮かんだ涙を拭いつつ、気丈に笑ってみせた。
「……ほんとに、ありがと。せっかくリューゴくんに助けられたんだから……妹と一緒に、がんばるね。いつか本当に……身体でお礼できるぐらいに、がんはるから!」
「いや、それはあれだけど、いつか王都に遊びにでも来るといいすよ。前にベル子も言ってたけど」
「うん。華やかな王都の夜、リューゴくんにいっぱいいっぱい恩を返せるようにするね」
「ほんっと、この人はもう……」
「え? 王都の夜に恩返ししたいなー、としか言ってないんだけど……。例えばほら、いいお店でご飯をご馳走するとか。王都の夜店ともなれば、いいお酒置いてるとこも多そうだし。あれー、リューゴくんってば何を想像したのかなー?」
「もう嫌この人! 俺帰る!」
「ちょっ、待ってってばー!」
だっと走り出した流護を、ミョールが追う。
青く澄み渡った夏空の下、子供のように駆けていく二人の姿は、多くの村人たちに目撃されていた。
ミョールが外で男を作ってきた――という噂はたちまち村中に知れ渡ることとなり、密かに彼女へ思いを寄せていた若い衆などは揃って肩を落としたという。
「あの……こないだの黒髪の小っこい奴がミョールさんの男だって噂、本当なんですか……!」
ある若者が勇気を出して問い質した折、彼女は妖艶に微笑んで言い放ったのだ。
「そだねー。『まじ』だよ? 未来のあたしのご主人さま、かな?」
男たちが絶望の淵へと叩き込まれ、妹のルティアが「お姉ちゃん本当なの!? ベルグレッテさんと全面戦争する気なの!?」と驚きのあまり立ち上がることに成功しかけ(朗報)、「いや、ベルグレッテちゃんと争うつもりはないよ? あたし、二番目のオンナでも……都合のいいオンナでも構わないし」などとミョールが言ってのけたことで騒ぎが大きくなり、小さな山村がよくも悪くも色々と沸き立ったのを、有海流護当人は知るよしもないのだった。