俺はもう、ただの有海流護でいいんじゃないか。

彩花に会いに行ってもいいんじゃないか――

そんな熱にうかされたような思考を寸断したのは、絨毯に転がった携帯電話から鳴り響く着信音だった。

「……!」

メールではない。これは、電話がかかってきた時に鳴るよう設定してあるメロディー。慌てて拾い上げ、相手を確認すれば――宮原柚、と表示されていた。

「……、も、もしもし」

肩透かしと安堵が入り混じった複雑な心境で応答すると、

『あー! やっと出た! もー、電源入れとけって言ったでしょー!』

思わず耳を塞ぎたくなるような大声が木霊してくる。

「おわ、す、すんません。ついつい忘れちゃって……」

『……また何かあったのかと思っちゃうじゃん。心配させないでよね』

トーン低めの悲しげな呟き。再びこの世界を去ろうと考えていた少年は、思わずドキリとさせられてしまった。

「そ、それで……どうかしたんすか? 学校は今……、あ、もう昼休みになるのか」

『そだよ。いやさ、今度はいつ暇かなーと思って。またうちにご飯食べにおいでよ。もちろん、ベルグレッテさんも連れてさ』

「そう、すね……」

『それで、どうなったの? お父さんとは話した? 警察には行った? これからどうなるの?』

「え……いや、親父帰ってくるのまだ先だし……別に、何もしてないっつーか」

『ええ!? なに悠長なこと言ってんの! 電話とかすればいいだけでしょ! 息子の無事を知らせてあげなさいって』

つい先ほど目を通したばかりの、珍しく真面目だった父親からのメール。

「まあ、まだ踏ん切りがつかないっつーか、ははは……」

『もー、試合のときの押しっぷりとは別人だよね、有海くんってばほんと』

「いや……なんかすんません」

確かに有海流護というただの高校生には、何もないのかもしれない。

しかし、今のうちから明るい未来の確約された同級生が果たしてどれだけいるのか。まだ十五歳。まだ高校生活も一年目。先のことなんて、これからゆっくりと考えていけばいいのではないか。悟ったように人生を悲観するには、まだ早いのではないか。

……こうして、よくしてくれる人だっている。

(俺……は、もう――)

「…………うう……」

「おお、気がついたか、ベル子……!」

かすれた声と共にベルグレッテが目を開けたのは、布団に寝かせて数分が経過した頃だった。

「……ここは……? わた、し……?」

「お前、階段の下で倒れてたんだよ。大丈夫か? 身体がだるいとか、どっか痛かったりとかしてないか!?」

「……う、ん、大丈夫。少し、めまいがしちゃって……」

「無理すんな、まだ横になってろって……!」

「わっ……」

起き上がりかけた彼女の肩を押さえつけ、ゆっくりと横たえる。

「ああー……、でも、よかった……マジで……」

ここでようやく、流護は安堵の溜息を吐き出すことができた。盛大にすぎる長い吐息には、魂の一つや二つ混入していたかもしれない。

――柚との通話を終えた直後。

廊下のほうから聞こえてきたのは、何かが床に落ちたような重い物音。何事かと顔を覗かせてみれば、階段の下でベルグレッテが崩れ落ちていたのだ。

ベル子、と叫んだ声が完全にひっくり返っていたのは致し方ないところだろう。慌てて駆け寄り呼びかけるも、返事はなく目も閉じたまま。ひとまず最寄りのこの和室へと運び込んで寝かせたはいいものの、果たしてここからどうすべきか。呼吸や脈拍に異常はないが、気を失った原因も分からない。もう、自分のことが明るみに出る云々などとは言っていられない。救急車を呼ぼう――と覚悟を決めたところで、幸いなことに彼女が目覚めたのだった。

時間にしてほんの数分の出来事ではあったが、流護としては生きた心地がしなかった。

「眩暈起こして、頭でもぶつけたか……?」

「ん……それはなさそう、と思うんだけど……たんこぶもないし……」

「それならいいんだけどさ……」

まじまじと、少女の美しい顔を観察する。

血色は悪くない。原初の溟渤を探索していた日々の疲れ――は、ここまで尾を引くものでもないはずだ。食事も、携帯食料ばかりだった任務中よりは遥かに良質なものをとっている。

となれば――慣れない日本での生活による気疲れか。

(……いや、ほんとにそうか……?)

精神面において、グリムクロウズの人々はタフである。現代日本人など比較にもならないほどに。不便かつ過酷な環境、命のやり取りが身近な世界で生きているのだから当然だ。少しばかり慣れない場所で暮らすことが、そこまで負担になるとは考えづらい。

ベルグレッテの場合、まるで生活環境の異なるレフェ巫術神国に半月以上も滞在していた経験があるのだ。かの地でしばし入院する羽目になった同行者のミョール共々、調子を崩すようなことはなかった。

(……、まさか……)

そこで流護の脳裏をよぎるのは、かつてロック博士――岩波輝から聞いたとある説。

流護や博士が体験した、『異世界転移』とでも呼ぶべきこの現象。これによって最も懸念されるべきは、病原菌の影響なのだという。

流護たちは、未知の惑星と思しきグリムクロウズの大地に降り立ったことで、地球には存在しないウイルスなどの脅威に晒される危険性があった。地球人はそれらに対する抗体や免疫を持たないのだから、むしろ当然ともいえる。

実際はあの世界に満ちているだろう魂心力《プラルナ》の影響なのか、そういった菌の類の悪影響を受けることはなかった。

だとすれば、それはそれで歓迎すべき事実である。

――が、ならば『逆』はどうなのか。

(ベル子は……この地球に来て、こっちの病原菌とかの影響を受けたりしないのか……?)

地球人にはさして脅威にもならない菌が、異世界の少女にとって致命の毒となる可能性は?

「リ、リューゴ? どうしたの……?」

「ん、ああ……」

呼ばれてハッとする。まじまじと顔を見つめてしまっていたらしい。

「ベル子……本当に何ともないのか?」

「……ふふ。リューゴって案外、心配性よね。大丈夫よ」

「そうか……でも、少しでも調子悪いとか思ったら、遠慮なく言ってくれよ。今みたいに、知らないとこで倒れてましたとかナシだぜ、まじで」

「う、そこはごめんなさい……。こんなことがあると、リューゴにも迷惑をかけちゃうものね。不調を感じたら、我慢しないできちんと報告するわ。ありがとう」

その眩しい笑顔を見る限り、無理をしているような気配は感じられない。顔色も良好だ。本当に、一時的な立ちくらみだったのかもしれない。

……だが。

(もし、違ったら……)

先ほどはなりふり構わず救急車を呼びそうになったが、よくよく考えたなら――

(無意味……だったかもしれねえ)

ロック博士によれば、地球人とグリムクロウズ人では、基本的な身体機能に差異があるのだという。

(つか実際、明らかな違いがあるんだよな)

同じ環境下にいながら、神詠術《オラクル》という力を手足のように使えるグリムクロウズの人間と、微塵ほども使えない地球人。

これは単純に、地球人には魂心力《プラルナ》を扱うための機能が備わっていないから、と考えられている。

同じ理屈で、グリムクロウズの人々が身体を鍛えたとしても、流護のような肉体性能は身につかない。単純にあの世界の重力が弱いことや、物事の多くを神詠術《オラクル》に依存しているため、肉体を酷使する機会が少ないこと――そういった環境から、そもそも発達しないようにできているのだ。そういう形に進化した人類、と言い換えることもできる。

(まあ……王様とかエンロカクみたいなマッチョも、いるにはいるんだけど)

何事にも例外は存在する。個体差や生まれつきの違い、というべきものか。詳細は不明だが、彼らは発達した規格外の巨体を有している。しかし少なくとも流護自身、同じような身長で同じような体格をした人間にはお目にかかったことがない。

ロック博士の理論に則るならば、地球の人間とグリムクロウズの人間は『別の生物』なのだ。それぞれ異なる環境で育っているのだから、むしろ当然ともいえる。

となれば、ベルグレッテには地球の医療が通じない可能性もある――ということになってくる。この世界の医療は地球に住まう人類のためのものであって、異世界の人々など想定すらしていないのだから。

(だから、ベル子が体調を崩しても……)

治療や薬などが効かないかもしれない。もちろん効くかもしれないが、思いがけぬ副作用がないとも限らない。

こんな不安は取り越し苦労で、心配する必要などないのかもしれない。が、そんな楽観をして、仮に何かあってからでは遅い。

ここには博識な岩波輝もいない。ただの高校生でしかない有海流護には、実際のところどうであるかなど知りようもなかった。

現時点で確実な道があるとするなら、たった一つ。

(ベル子を、グリムクロウズに帰す……)

魂心力《プラルナ》は活力でもある。

ちょっとした不調程度であれば、元の環境に戻れば回復するはずだ。不安なら、向こうの治療士に診てもらうこともできる。

そもそも、その魂心力《プラルナ》がこちらの世界に存在しないことが原因かもしれない。そんな状態での生活が何日も続いている。必要な活力が足りていないということだ。

例のメッセンジャーが指定した時間と場所。一度きりだというその機会。

いっそ彼(?)にベルグレッテが倒れたことを報告してみれば何か助言がもらえるのではないか、とすら考えたが、さすがに敵か味方かも分からない謎の人物に話すべきことではないように思える。

(待てよ。実はアイツが指定してきた十二月三日、ってのは、もしかして……)

むしろあの誰かは、こうしたグリムクロウズ人の性質を知ったうえで接触してきたのかもしれない。その頃には戻らねば、いずれベルグレッテが力尽きてしまうと。

(……とにかく、行ってみるしかない)

本当にあの異世界へ渡れるかどうかは不明だが、他に手立てがない以上、何が何でも向かわなければならない。

「…………、」

ベルグレッテは絶対に帰す。

だが、

(俺、は……?)

目を逸らし続けていた事実を直視し、ついに知ってしまった。気付いてしまった。蓮城彩花という幼なじみに対する思い。

そして――自分によくしてくれる、宮原柚という先輩の存在。

もうすぐ、父親だって帰ってくる。男二人でむさ苦しいながらも、賑やかで平和だった日常が。

今すぐだ。

本当は今すぐにだって、彩花や父親、友人たちに知らせたい。自分は生きていると。無事だと。こうして帰ってきたと。

戻ろうと思えば戻れるのだ。かつての生活に。

――それら全てを放棄して、

(俺は……また、グリムクロウズに……行く、のか?)

有海流護は、ついに気がついた。自覚した。

固めたはずの決意に、綻びが生じてしまったのだと。

そんな、押し黙る少年の横顔を。

「…………」

異世界の少女騎士は、布団の中から静かに見つめていた。