十二月三日。
日が昇り、流護とベルグレッテが日本で過ごす最後の一日がやってきた。夜、午後九時には、例の人物が指定してきた笹鶴公園へ着いていなければならない。
午前七時半。あえて、以前のようないつも通りの朝の食卓。そこにベルグレッテが加わった、三人の風景。
「おう流護。そういやお前、もうすぐ誕生日じゃねえか」
「あ……そうだっけか」
異世界の少女がナイフとフォークで丁寧にベーコンエッグを切り分けようとしている様子を眺めながら、息子は思い出したように相槌を打った。というより、実際に思い出した。自分の誕生日のことなど、頭の片隅にすら残っていなかったのだ。
「ふん、お前が十六になる……か。ま、もう大人だろ。自分で自分のやりたいこと決めて動くには、いい時期じゃねえか。今の時代だと、いくら何でも早過ぎるってのが世間の見解なんだろうけどよ」
「そんなもんかね……」
「……、リューゴ、そういえば以前言っていたわよね。生誕日のこと。喜ばしいことだわ。おめでとう」
ベルグレッテはわざわざ食器を置いて、丁寧に祈りを捧げてくれる。ちなみに反応にわずかなタイムラグがあったのは、脳内で『誕生日』を『イリスタニア語』に変換していたからだろう。今しがた彼女が言ったように、向こうでは『生誕日』と呼ばれている。
「具体的にはいつだったかしら?」
「今月の八日だから……五日後かな」
食器棚の脇にかけられているカレンダーを眺めながら答えると、
「よし」
汚い音を立てて一気に味噌汁を掻き込んだ源壱が、何やら意味ありげに頷いた。
「ちと早ぇが、たまには祝ってやる。後で、ケーキの一つでも買ってきてやるよ」
「はぁ? んだよそれ、別にいらねーけど……」
「そこは察しろよ。お前にかこつけて、ベルグレッテちゃんにケーキでもご馳走しようっていう魂胆だろうがよ」
「自分で魂胆って言っちまうのか……」
「……お前の誕生日祝うのも……最後、だろ。ちったぁ、父親らしい真似もさせろやな」
「……、」
そう言われてしまっては、返す言葉もなかった。
重い雰囲気にならないよう、流護は慌てて話を繋ぐ。
「で、でもあれだぞ。前にベル子の屋敷でご馳走になったときケーキも食ったけど、すげぇクオリティー高かったぞ。つか、王都のケーキ屋なんかもすげぇし。トモダイの一階にあるような店のケーキだととても話にならんぞ」
「ぬう……」
「な、なんでしょうか? 私のことでしたら、お構いなくっ」
源壱の視線を受けて、上品な所作でご飯を口に運んでいたベルグレッテが恐縮する。
そんなこんなで、賑やかな朝の時間は過ぎ去っていくのだった。
県内に展開しているスーパーマーケット、トモダイ。娯楽施設と呼べるものがないこの田舎では、休日ともなれば多くの客でごった返す人気(?)スポットだったが、今日は平日ということもあり、広い店内はがらんとしていた。
経営が心配になりそうなほど閑散とした一階フロア、その片隅にて。
「うーむ……」
ケーキ屋のショーウインドーを前にした有海源壱は、うんうんと唸っていた。
ガラスケースを隔てた向こう側では、大学生ぐらいと思われる若い女性店員が、ぬぼーっとした面持ちで注文を待っている。
朝食の席で宣言した通り、ケーキを買いにやってきた源壱だったが――
(クリームか? チョコか? どっちがいいかぐれぇ聞いてくりゃよかったな……。とにかく、安物はダメだ。しっかしケーキって今、こんなに高ぇのかよ……。しかも同じようなのが何種類あんだ? クリームならクリーム、チョコならチョコでいいじゃねぇか)
何分《なにぶん》、今朝突発で思いついたこと。当然ながら予約などしていないので、ここにある品から選ぶしかない。そのうえ、普段はケーキなど買うガラでないこともあって、どうにも勝手が分からない。果たしてどれがいいか。どれなら満足してもらえるか。悩む。
ちなみに、バカ息子を気遣っての話ではない。アホ息子が連れてきた、異国の――それもやんごとなき身分の令嬢としか思えない少女を意識してのことだ。クソ息子によれば、こういったチェーン店レベルでは張り合えないという話だったが、そもそもこの田舎の近辺には他にケーキ屋がない。となれば――
「ええと、店員さん」
「はいー」
「この……フォ……フォレノワール? ってのを一つ」
何語だよ……と思いつつ、せめてこの店で一番高いものを注文する。スイーツなぞとはまるで無縁な五十男にできることは、せいぜいこの程度だった。
「かしこまりましたー」
のほほんとした若い女性店員は、イメージ通りの間延びした声で受け答え、これまた想像通りのゆったりとした動きでケーキを取り出しにかかる。そののんびりとした仕事ぶりは、源壱が妙案を閃くに充分な時間があった。
「そうだ、店員さん」
「はいー。なんでしょうかー」
「あれだ。プレート……っつうの? あのほら、誕生日おめでとう、みたいに書いた菓子をケーキに乗せるやつ。あれをやってもらうことはできますかい」
「バースデープレートですねー。承っておりますよー」
「……じゃあ、一丁お願いしますわ」
「かしこまりましたー」
のんびりと準備に取りかかる店員を眺めながら、源壱は心中に生まれたかすかな懸念を飲み込む。
提案しておきながら、一瞬迷ったのだ。
流護の名前を書いてもらっても大丈夫だろうか、と。
何せ一風変わった名前である(源壱自身がつけたのだが)。少なくともこの狭い田舎町で、他にはいないだろう。行方不明となった一件で報じられて以降、記憶に残っている者も少なくないかもしれない。
(まあ、この姉ちゃんなら……)
見るからにポケーっとしたおっとり系である。あまりそういった事件に関心もなさそうだし(失礼)、流護とは歳も違うし、まあ大丈夫だろう、と源壱は高を括った。仮に『気付かれた』としても、いなくなった息子を偲んでの行いと考えれば、そう不自然ではないはずだ。
「どのようにお書きしますかー」
「あ、おう。えーと、そうだな……。……『誕生日おめでとう流護』って感じで……」
「りゅうご、さん? 男性のお名前、でしょうかー? 息子さんですかー?」
「え、ええ……、まあ。どうしようもないドラ息子なんですがね、その、たまにはケーキでもと思って」
「ふふ、かしこまりましたー」
幸いにして、『気付かれなかった』らしい。
平仮名で『りゅうご』と依頼するほうが店員も楽そうだが、あのドラ息子はガキっぽいだの何だのと文句を言うに違いない。漢字で『流護』と書くことを説明した後、彼女が作業に取りかかる。取り出したデコペンで、チョコプレートに精緻な文字を綴っていく。『護』などは画数も多いため難しいと思われたが、そこは見事な手際だった。
「……おおー。一回で書けたー」
……たまたま上手くいっただけのようだ。
「いかがでしょうかー」
チョコの黒地に映えるクリームで描かれた、『お誕生日おめでとう 流護くん』の愛らしくも丁寧な文字。
「いやいや、ウチのドラ息子にはもったいないぐらいの出来だ。そんじゃ、それでお願いしますわ」
「ありがとうございますー」
サービスとのことで、包装も誕生日向けの丁寧かつ派手なものにしてもらった。
「……、」
思えば、こんな風に誕生日ケーキを用意してやるなど何年ぶりだろう。忙しさにかまけて何もしてやれなかったこれまでを後悔しつつ、女性店員に見送られながら店を後にするのだった。
源壱は次に、最寄りのスーパーへ向けてジープを走らせた。今日の昼飯と夕飯の買い出しをするためである。これらも、奮発して豪勢な内容にするつもりだった。
交差点で赤信号に捕まり、空白の時間が生まれる。
「…………」
ともすれば、頭の中を占めるのは息子のことだ。
それも当然に決まっている。唐突に行方を眩ませて半年。ようやく帰ってきた――と思いきや、今日限りで家を出ていくというのだから。
突然の失踪。手がかりもまるで掴めないまま、無為に過ぎ去った月日。そして急な帰還。その息子の口から語られた体験談も、荒唐無稽に過ぎるものだ。到底、信じられるような内容ではない。本来ならば、すぐにでも警察へ連絡すべきだったろう。――が。
(とんでもねぇ。また……あんたの言った通りじゃねぇか……)
源壱は、ただただ驚愕せずにはいられない。
『帰ってくるよ。流護は』
まるで、この未来を読んでいたかのような。
『一回りも二回りも成長して、ね。そいでまた、旅立つじゃろう』
そんな言葉を残した人物がいた。
(あんたには……何が見えてたんだ……? 片山十河……)
妻が交通事故死した時に続いて、二度目。
住宅街の片隅で細々と道場を経営している老人。どこか浮世離れしたあの男の予言めいた言動が、ものの見事に的中する形となった。
そして、
(これから先……もし、あんたの言う通りなら――)
馬鹿げた話。しかし、笑い飛ばすことができない。
(……ったく。どうかしちまったのかね、俺も)
溜息を吐くと同時、信号が青に変わる。妙な夢でも見ている気分のまま、源壱はアクセルを踏み込んで愛車を発進させた。
休み時間で騒がしい教室を離れ、人の少ない廊下へ移動する。と同時、耳に当てていた携帯電話から聞き慣れた声が届いてきた。
『もしもしー』
「あっ、お姉。今、昼休み?」
『そうだよー』
「そっか。バイト、ちゃんとやれてる?」
『やれてるよー』
「ほんとかなぁ……」
いつも通りのんびりとした姉の反応に、芹沢七菜《せりざわなな》はつい苦笑いを浮かべてしまった。
見た目はもちろん、内面もポケーっとした姉である。とても接客業などが務まるとは思えなかったが、社会経験も積んでおくべきだろうとの両親の声もあって、大学生にして初めてのアルバイトを経験することになったのだった。
ちなみに勤め先は、県内チェーン店トモダイ内にあるケーキ屋。 勤務日は月、水、木曜。常々ポケポケしている姉ながら、菓子作りの腕前はかなりのもので、また平日の昼間ならほとんど客も来ない。これだったらこの姉でも何とかなるかも……とも思う妹の七菜だったが、つい心配になってしまい、こうして電話をかける日々なのだ。
『今日は、ちゃんとお客さんの対応もしたんだからー』
「えっ、こんな平日に客来たんだ……珍しい。ちゃんと失礼のない対応ー、とかできた?」
『七菜こそ、お店に失礼なこと言ってるよー』
「はは、ごめんごめん」
『お誕生日ケーキの依頼があって、プレートに一筆したためましたー』
「えーすごーい。ちゃんとできた? って、それは大丈夫か。お姉、そういうのは結構上手いし」
『うん。お誕生日おめでとう流護くん、ってちゃんと書けたよー』
「――――……、え?」
一瞬、七菜の思考が停止した。
昼休みの……周囲の喧騒すら遠のく。
「……お姉……、今、なんて?」
『なにがー?』
「名前! お誕生日おめでとう、の後の名前! なんて言ったの!?」
『え? 流護、くんー……? だけど……変わった名前だよねー。ちょっとキラキラ?』
「…………、」
聞き間違えではない。
その、覚えある名前は。二人といないだろう、親友の少女が――蓮城彩花がとらわれ続けている存在と同じ名前。
「じっ、字は? 漢字? もしかして……流れるの『流』に、護るって読める『護』の字じゃない!?」
『えー……あ、うん、そうだけどー……』
「……、それ、ケーキ注文した人は……どんな人だった?」
『ちょっとワイルドなかんじの、素敵なおじさまだったよー。息子さんに買っていく、って言ってたけどー。ちょっと照れてて、微笑ましかったですぞー』
(……、あいつの、父親?)
七菜は、有海流護に興味はない。中学も一緒だった同級生、彩花の幼なじみ、程度の認識しかない。当然、父親がどんな見た目かなど知らない。父子家庭であることは、彩花から聞いているが。
(誕生日ケーキ……あいつの、誕生日……)
もちろん、そんなもの知るはず――
(……ん……いや、そうだ、十二月だ……!)
あれは一昨年、中学二年のちょうど今時期。
彩花と一緒に追いかけているバンドがあるのだが、全国ツアーで近場にやってくることが決定し、喜び勇んで彼女を誘ったのだ。
『あ、あー……行きたい、すっご行きたいけど……ごめん、その日は無理……』
まさか断られるなどとは思いもせず、なんで!? と別れ話を告げられた女のように詰め寄ったところ、
『いやー、その日、あのバカの誕生日なんだよね。一応、毎年祝ってあげてるし……』
七菜は、有海流護に興味はない。しかし、このときばかりは意識したのだ。それはもう強く。まじ邪魔こいつふざけんな、と。なんつー日に生まれてんだ、と。八つ当たりだと分かっていながらも。
(……だからとにかく、あいつの誕生日は十二月で間違いない。あのライブが何日だったかまでは忘れたけど)
今と同じ、十二月。ということは――
『七菜ー? どうかしたのー?』
「あ、いや、うん。えーとごめんお姉、ちょっと用事思い出したから切るね」
間延びした返事を待たず通話を終え、考える。
(どういうこと? 有海のヤツ、見つかった? 戻ってきたの?)
いやおかしい、と七菜は即座に否定する。
学校側から何も報告はない。生徒の間でも、そういった噂は囁かれていない。何よりそんな話があれば、彩花が把握していないはずがない。今日も彼女は『いつも通り』。半身が欠けたような、ここ数ヶ月の間ですっかり定着してしまった覇気のなさで学校へやってきている。あの様子では、幼なじみ失踪の件に変化があったかどうかなど考えるまでもない。
(思いきって彩花に訊いてみる……? ……いやいや、やっぱナシでしょそれは……)
有海流護のことを忘れさせるために週末遊びに誘ったというのに、ここで自分から触れてどうするのか。
(有海のお父さんが、いなくなった息子を思って……とかかもしんないし。でも……うーん……)
どうにも釈然とせず思い悩んでいるうちに、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。
「あーもう……!」
納得のいく結論を出せないまま、教室へ向かって歩き出し――
「あ。七菜。なにしてたの、こんなとこで」
「うおう!」
廊下の曲がり角で、ばったりと彩花に遭遇した。
「? なによ、そんなに驚いて」
整った顔に浮かぶ微笑み。例の事件が起きた当初からは考えられないほど持ち直した、その表情。けれど、どこか色あせたままとなっている、今にも消えてしまいそうな儚い微笑み。
……やはり、有海流護の件に何か変化や進展があったとは――彩花がそれを把握しているとは思えない。
「あー……いや、ほら。お姉と電話してた」
「あ、そっか。香澄《かすみ》さん、バイト始めたんだっけ」
「うん、そうそう。そっ、そんでさー」
今すぐ尋ねてみたい。しかし散々に打ちのめされてきた友人を、確証のない話で揺さぶりたくはない。
七菜はひとまず、姉から聞いた話を胸の奥へと仕舞い込んだ。
「わぁ……すてき!」
「いや、本気かベル子……。なんつーかさ、こう……ちょっとガキ向けっぽくねーか? これ」
「結局言うのか……。実際にガキなんだから、何の問題もねぇだろ」
食卓の真ん中にでんと置かれた、フォレノワールのホールケーキ。チョコの大地に鎮座する菓子の家。そこに寄り添う形で立てかけられた、『お誕生日おめでとう 流護くん』と書かれているチョコプレート。
にぎやかな装飾の施されたケーキを前にして、三人は何だかんだと盛り上がった。
「ほれ、ちゃんとローソクもあるからな。こうやって……」
源壱が太い指に小さな蝋燭を摘み、ざくざくと無遠慮にチョコの表面へ突き立てていく。
「せめてもうちょい丁寧に立てろよ親父……。墓場みたいになってんじゃねーか」
流護がもうじき迎える年齢と同じ数――計十六本の蝋燭は、所狭しとケーキ上を彩った。雑多なその光景を前にして、源壱がううむと唸る。
「全部に火ィつけるとなると、結構面倒臭ぇなこれ。菓子の家に飛び火したりしてな」
そう零しつつも、一本一本にライターで火を点してゆく。
「……、」
半分ほどで、不意にその手が止まった。
「どうした、親父。疲れたのか? まだ半分残ってるぞ」
「いや……こんな風にローソクまで立てて祝ってやったのって、いつが最後だったかなと思ってよ。少なくとも、片手で数えられる程度だったんだよな。そりゃ俺も、歳取るはずだぜ」
「……、」
「悪かったな、流護。これまで……ロクに祝ってやれねぇでよ」
「べ、別に……誕生日でハシャぐようなキャラじゃねーし。親父が忙しいのは分かってたし、そのおかげで俺もやりたいことやって好き勝手暮らせてたんだし……だからまあ、なんつーか、むしろその……ほれ……」
今まで、ありがとう。
その言葉は、面と向かって口にするにはどうにも気恥ずかしく――また、言えば何もかもが終わってしまいそうな気がして。声に出せないまま、流護は黙りこくった。
そこで、
「……な、なんだよベル子。なに見てんだよ……」
聖母のような優しい眼差しを送ってくるベルグレッテに矛先を向けるが、
「少し早いけど……お誕生日おめでとう、リューゴ」
そう微笑みかけられ、余計にくすぐったい思いをすることになってしまった。
「べ、別にそんな大げさなモンじゃねーし! ほれ、とっとと食おうぜ!」
けれど本当に、いつ以来となるのだろうか。
少し前倒しではあったが、賑やかな誕生日祝いの時間が過ぎていく。
――あえて最後の一日と意識することはせず、いつも通りの時間を過ごした。
正午を回ってしばらく。
「うう、本当にリューゴの言う通りになった……」
「だから言ったろ。最後はもう、誰か一人刺されて終わりじゃねーかな。つか展開早いな、このドラマ」
「そんな……」
昼ドラを視聴し、救いのない泥沼展開に気落ちするベルグレッテを慰めて。
暖かな昼下がり。
「おいおい、酔ってんのかー親父。王手だぞ」
「あっ」
明るいうちから缶ビールを片手にした父親と、将棋に興じ。
「ベル子、試しにちょっとやってみるか?」
脇で見ていた少女騎士へと振ってみる。
「えっ、う……うん。で、でもルールが……」
「トラディエーラと大して変わらねって。まあ、俺が脇についてサポートすっから」
「そ、それじゃあ……」
異世界の少女を、純和風な盤上遊戯へと誘う。
「オーテ、です」
「うおう……」
片手間に枝豆を摘んだ源壱の手が止まり、
「オーテ……よね?」
「まじすかベル子先生。よくぞ我を超えた……ぐふっ」
本気で挑んだ流護があっさりと打ち負かされ。
才色兼備すぎる少女騎士は、ここでもその非凡さを発揮した。
少しずつ日が傾き始めた、夕方。
「……やっぱり、もう接触してくる気はないみたいだな」
「そう……」
部屋でパソコンをチェックして例の人物からの連絡がないか確認してみたものの、やはり音沙汰はなく。試しにメールを送ってみようとしたが、相手のアドレスが破棄されてしまっている。
「しっかしあれだな。もう向こうに戻れるつもりで構えてっけど、これで戻れなかったら……あ、いや、大丈夫だとは思うんだけどさ」
「ふふ。そんなに私に気を遣わなくてもいいわよ」
ベルグレッテの反応も、この現代日本へ迷い込んだ当初とは別人のようだった。見慣れぬ世界の全てに不安を感じていた、迷い子の少女はもういない。今や電気・ガス・水道に始まる文明の利器の使い方をマスターし、昼ドラを楽しみ、将棋すら打てるようになったハイブリッドなファンタジー少女騎士だ。
「指定の時間、指定の場所へ向かえば……なにかしらの進展があることだけは、たしかでしょうしね」
「だな……」
現代日本、そしてグリムクロウズの双方を知る謎の人物。出向けば、その正体も分かるかもしれない。
ともかく、なぜか確信に近い予感があった。
必ず何かが起こる、と。
「……」
きっと、これが最後。
デスクチェアに座った自分と、すぐ脇のベッドに腰掛けたベルグレッテ。すっかりおなじみになったこの定位置で談笑に興じるのも、これで終わりだ。
「ベル子、もう準備は終わってるのか?」
「ええ。いつでも行けるわ」
いくら向こうへ戻るつもりとはいえ、さすがにここから革鎧やマント、長剣を身につけて出ることはできない。これらは袋に詰め込むなり、布を幾重にも巻くなりして持ち運ぶ必要がある。
そこはしっかり者の少女騎士というべきか、すでにそういった処置は抜かりなく済ませたとのことだった。
「そうか。……にしても……うーん……」
頷きつつ、流護はベルグレッテにじっと視線を注ぐ。
「な、なに?」
見つめられて居心地悪そうに身をよじる少女騎士に対し、提案した。
「ベル子……何だったら、そのジャージも持ってくか?」
「えっ? で、でも……」
そうなのだ。ベルグレッテは結局、こちらでの生活の大半をジャージ姿のままで過ごしていた。家にいるとき、走りに行くとき、寝るとき、そして今このときも。……ちなみに、三着ほどをこまめにローテーションしている。
「最初は着せられそうな服がなくて、苦肉の策みたいなつもりだったんだけど……随分気に入ってるみたいだし」
「ま、まあね。着心地が素晴らしいもの……」
緑一色な自らの細身を見下ろして呟く。
「こっちに残してもタンスの肥やしになるだけだし、持ってけ持ってけ」
「い、いいの? それなら、遠慮なくいただいていこうかしら……」
流護としても、ジャージ姿のベルグレッテは普段と違う芋っぽい魅力があるので大歓迎だった。むしろそう仕向けたといえる。
「じゃあ、追加で準備しておかなきゃ……っ、ひゃっ!」
「うお、危ねえ!」
部屋を出ようとして何かに躓いたベルグレッテを、咄嗟に立ち上がって支えた。
「だ、大丈夫……か……?」
「…………う、うん」
自然と密着しながら見つめ合う形となってしまい、
「………………、」
「………………、」
妙な沈黙が生まれる。
「……あ、あの、リューゴ」
「お、おう」
「……こ、これからも……よろしくねっ」
「あ、ああ」
そう。これから『も』だ。
有海流護は、あちら側の住人となる覚悟を決めた。もう、揺らがない。
引き続き見つめ合っていたところで、コンコンと部屋のドアが叩かれる。
「うおーい、メシにしようぜぇーっと」
言うまでもなく源壱だった。夜の八時には家を出る予定のため、早めに最後の夕飯を済ませることにしていたのだ。
「お、おう。今行く」
そうして三人、最後の団欒の時間を楽しんだ。