――そのようにしてロック博士は現在、以前よりも精力的に研究に没頭している。

「気張るのもいいけど……身体、壊さないでくださいよ?」

「そこは心得てるよ。ボクも分別ある大人だからね」

滋養清茶をすすりながら笑う博士は、疲労の色濃いながらもこの調子だった。自称・分別ある大人は、まるで新しい玩具を買ってもらった子供みたいに興奮が隠せていない。

「……ったく、どーだか……。あっ、そうだ博士。これ」

思い出したように、流護は持参していた鞄から数枚の紙を取り出した。そもそもこれが本題である。

「おお、そうだったね。確かに受け取ったよ」

ざっと目を通した博士が、いかにも研究者らしくしたり顔で頷く。

「……ふむふむ。城の周辺ぐらいであれば、問題はなさそうだね。少し遠くなると、途端に切れたり通じたりか……。やっぱり場所によって、『通り』の良し悪しもあるみたいだねぇ」

何の話かというと。

結晶の研究と平行して、『通信具』の開発が始まったのである。

最近は、流護がちょくちょくと試運転に協力したりしていた。今しがた渡したのは、その実験結果を記したものだ。

いわば電話のようなものだが、まだ小型化に成功していないため、この試作機がやたらと大きかったりする。現状、一メートル四方の黒い箱の上部にツマミやらレバーやらがついている、djプレイヤーみたいな物体に仕上がっていた。これをいじっていると、「オレを生んでくれた両親にマジ感謝」みたいな気分でラップを刻みたくなってくる。

運用方法は簡単で、一台は城内に設置。もう一台を大きな台車に載せてがらがらと引っ張っていき、外の色んな場所から城の通信具へ『かけてみる』のだ。王都の城内とその外部周辺であれば、ノイズはひどいものの、何とか会話が交わせる程度には開発が進んでいた。

外から発信し、城内の通信具前で待機するクレアリアに『通じた』ときは思わずテンションの上がった流護だったが、対応した彼女の反応はといえば「は、はぁ」といった感じだった。

……考えてもみれば、詠術士《メイジ》たちはそれこそ通信の術を使えばいいだけなのである。こんな大がかりな装置などいらないのだ。これが必要なのは、流護や博士、神詠術《オラクル》の不得手な一部の者たちのみ。需要としては、かなり少ないのかもしれない。

加えて今は結晶の保存方法も確立していないため、その消耗が異常に早い。すぐに『電池切れ』で使えなくなってしまう。ほとんどへたったバッテリーみたいなものだ。

とはいえ通信術は、個々の技量によってその性能を大きく左右されるものでもある。誰が扱っても一定の精度で運用できるようになれば、便利になることに違いはないはずだった。

「まあ、この件も平行して進めていくよ。ボクや流護クンにとっては『いい話』だからね」

そう言って流護から受け取った報告書を仕舞い込んだ博士に対し、

「ロック先生も、通信の術ぐらいは頑張って習得してくださるといいんですけどね」

やや不服そうに苦言を呈するのはシャロムだ。

「ははは。残念ながら、ボクには丸っきり才能がないみたいでねえ」

「少し練習すれば使えるようになると思うのですが……。こちらとしては不便で仕方がありません、まったく」

『変わり者』としても名高いロック博士は、術を使おうとしないことで知られている。博士に用事がある場合、直接この研究棟まで足を運ばねばならないため面倒だ、との声も多い。

「ありがたい神の恩恵だからこそ、甘んじて享受するのではなくその全容を知ってから使いたい」など、独自の理由やら主張やらを展開してごまかしている博士だが、もちろん流護は真実を知っている。ロック博士――日本人である岩波輝は、神詠術《オラクル》を使えない。流護と違い、記憶喪失を騙ったりもしていない。

実のところ公には、ロック博士は炎属性を扱うということになっている。これは本人によれば、転移した時に所持していたライターを使い、術が扱えない事実をごまかしたことに由来するのだという。

(それで乗り切ったうえ、今じゃ神詠術《オラクル》研究の最重要人物《トップ》になってんだから、この人の非凡っぷりもやべぇよな……)

無術の戦士という特異性から何かと持ち上げられることの多い流護だが、その功績や歩んできた道のりを考えたなら、博士のほうが自分より遥かに上だ、と少年は掛け値なしに思っている。

想定していた固体の魂心力《プラルナ》が実際に発見されたことで、これからも今まで以上に目覚ましい活躍を見せてくれるはずだ。

「そもそも私、ロック先生が神詠術《オラクル》を使ってるところを見たことがない気がします」

「そりゃあ、極力使わないようにしてるからねえ。大した術も使えないから見せたくないってのもあるし。ともかくボクは火の神クル・アトを尊ぶがゆえ、可能な限り頼らないようにする方針なのさ」

隠蔽歴十四年ともなると、その躱し方も慣れたものである。

三人でしばし談笑に興じるうち、シャロムの呼んだ帰りの馬車が到着したため、流護も一緒に研究棟を出ることにするのだった。

校門までの道すがら、流護は隣を歩く研究員に礼を述べた。

「シャロムさん。今日も彩花の世話に来てもらって、ありがとうございました」

「いえいえ。私としても興味深いことですので、お気になさらず」

眠り続ける彩花の身の回りの世話は、王都から定期的にやってくるシャロムが担当していた。彼女は研究者としてだけでなく、医療の心得も備えた人物であるため、神詠術《オラクル》と医術の両面から彩花の昏睡状態についての調査を進めてくれている。

「……ただ、このままアヤカさんが目覚めないようだと……そろそろ、健康の面でも心配になってきますね」

「そうっすよね……」

飲まず食わずの寝たきりで一ヶ月近く。点滴のような設備も存在しない。賦活の神詠術《オラクル》で処置し続けている状態だが、それにも限度がある。

やがて馬車の前へたどり着き、振り返ったシャロムが人差し指を立てた。

「よろしいですか。遊撃兵さんも諦めず、アヤカさんに声を掛け続けてあげてください」

「はい」

「そうですね……案外、接吻してみるというのも効果的かもしれませんよ。姫は、王子の口付けで目を覚ますものですから。もう試されましたか?」

「あーいお疲れ様っしたー、どうぞ気をつけてお帰りくださーい」

「つれないですねぇ」

乗り込んで窓越しに片手を上げてくるシャロムに応え、遠ざかっていく馬車を見送る。

車体が岩陰の向こうに飲み込まれていったのを確認し、敷地内に引き返した流護は、

「……ん?」

校舎からこちらに向かってくる小さな女生徒の姿を発見した。頭の左側で結わえられた藍色の長い髪が、彼女のきびきびとした歩調に合わせて忙しなく揺れている。遠目にもすぐ誰と判別できるその特徴は、

「おーう、どうかしたのかクレアさん」

「ええ、私の用件ではありませんが」

男嫌いのロイヤルガード見習いにしてベルグレッテの妹、クレアリア・ロア・ガーティルード。姉妹入れ替わりでリリアーヌ姫に仕えている彼女らだが、今は姉が姫様付き、妹が学院滞在中だった。

「先程、陛下から通信がありました。明日のお昼過ぎ、城へ出向くように……とのことです」

「ん……、そうか。了解した」

「おや、あまり乗り気ではないようですね。城へ行けば、姉様ともお会いできますのに」

「まあ……それはそうなんだけどさ」

「気になりますか、アヤカ殿が」

やれやれとばかりに溜息をつきながら、クレアリアは壁際にそびえる研究棟を見やる。

「大丈夫です。私もいますし、女性教員の方もおられます。空いた時間に、様子を見に行っておきましょう」

「ああ……サンキュな。助かるよ」

「しかし」

と、クレアリアは鼻息荒く腕組みをしてみせる。

「私としては、まず姉様が心配です」

「うーん……それもな……そうなんだよな……」

遠征任務が終わって三週間、現代日本から戻ってきて一ヶ月。実はこの期間の間に、ベルグレッテは二回も倒れてしまっていた。とはいえそこまで深刻なものではなく、軽い立ちくらみ程度のものではあるのだが――

「姉様は、ニホンを訪れた際にも倒れられたのでしょう? チキュウで、何かよくないものに触れられたんじゃないですか?」

「う、うーん」

じとっとした視線を投げかけてくる妹さんだが、流護としても否定できないのが心苦しいところだ。

魂心力《プラルナ》の有無もそうだが、例えば空気のきれいさ加減ひとつ取っても、比較にならないほどの差がある。排気ガスやらにまみれた現代日本のそれと、大自然に囲まれたレインディールのそれでは、どちらが澄んだものであるかなど論ずるまでもない。

水道水なども、実はグリムクロウズの人間には合わなかったのかもしれない。カップラーメンを食べさせたことも、本当はよくなかったのかもしれない。

ベルグレッテが現代日本という世界に降り立った事実――それは、極めてきれいな天然水でしか生きられない魚が、薬の入った水道水に放り込まれてしまったことに等しいのかもしれない。

などと思ってもみる流護だったが、医者やロック博士の見立てでは、異常なしと判断されている。ベルグレッテの身体に、何らおかしなところはないと。あえて理由探しをするのであれば、グリムクロウズとはまるで異なる日本での生活が、知らず負担となっていたのでは……との話だった。

一理あるのだ。流護たちの他に、現代日本とグリムクロウズ間を行き来している人物がいる。例のメールを送ってきた、『惑星間転移』の神詠術《オラクル》を使えるのではないかという、あの『彼』。

異世界人が地球へやってくることによって何か変調をきたすのであれば、『彼』も同様であるはず。流護やベルグレッテをこの世界に戻したかった『彼』としても、そのような事実があれば、何か忠言したのではないだろうか。

もっともロック博士によれば、『彼』は常識で考えるべき相手ではないかもしれない、とのことではあるのだが……。

「今更ですが……例えば、食事が良くなかったとか。まさかとは思いますが、姉様に妙なものを食べさせたりはしていませんよね」

「ん……飯は問題なかったと思うぞ。つか食品の衛生面とか、日本はかなりうるさい方だと思うし。あとはなあ……ポテチとかは、ミアもクレアも食ってたから問題ねーだろうし……」

「ぽてち? 何ですか、それは」

「ほら、俺が向こうから持ってきた菓子だよ。袋に入った、あのうっすいチップ状のやつ」

「あ、ああ。あれですか」

「クレアもやたらと食ってたもんな」

「そ、そんなことはありません」

「バリバリムシャムシャ食ってたよな」

「そんなことありません! 誤解を招くような言い方をしないでください!」

「へー。なんか、城とか学食の給仕さんにあれを再現できないか訊いてたって話を聞いたけど気のせいっすかね?」

「き、気のせいです」

「そっか。嘘が嫌いなクレアさんがそう言うんだから、そうなんだろうな」

「ええ! おいしかったですよ! ポテチ! とてもおいしかったです! 悪いですか!」

「わ、悪くないからキレないでくれ」

味つけの濃い菓子類はこの世界では珍しいこともあって、ファンタジーなお嬢さん方にも実に好評だった。ミアなどは、まさしくハムスターのように頬いっぱいに詰め込んで「ほかのお菓子食べられなくなっちゃうよ!(バリバリ)」とのたまっていたものである。ちなみにその後、口の中にデキモノができたと涙目になっていた。

「まあ、明日はベル子の様子も見てみるよ。……けどあれか、王様直々の呼び出しってーと……また日本の話聞かせろ、とかだったりしねーよな」

「ふふ、かもしれませんね。今程申し上げた通り、留守は私が預かりますのでご心配なく」

淡々と言ってのけるクレアリアの横顔を、流護は何となくじっと見つめる。

「何ですか」

「いや……クレアさんも初めて会った頃に比べると、すっごい接しやすくなったっていうか、最近はほんと色々頼りになる相棒っていうか……」

「は、はぁ? う、うるさいです。誰が誰の相棒ですか。調子に乗らないで。見ないでください」

そう言い捨てて足を速め、スタスタと歩いていってしまう。置いていかれる形になった流護は、そんなクレアリアの後ろ姿を微笑ましい気持ちで見送った。

実のところ、流護に対してだけではない。男子の間では、「最近クレアリアが丸くなった」と評判なのだ。

『ツン』しか存在しないクレアリアブリザードとでも呼ぶべき氷河期に晒され続けた男子諸君(流護含む)だったが、昨今では罵倒されると思った場面で優しい言葉をかけてもらえたという報告も増えており、そのギャップに撃沈してしまう者も続出していると聞く。

クレアリアがそのように変わった切っ掛けとなると、やはり最愛の兄の仇であった『帯剣の黒鬼』が討ち果たされたことなのだろう。長きに渡って引きずっていた兄の件に区切りがつき、姉はそれを契機として飛躍的な成長を遂げた。自分も置いていかれぬよう励まねば――という気持ちが、クレアリアの精神的な成長を促したのではなかろうか。

「……、」

きびきびとした彼女の背中を眺めつつ、流護は自らの両頬をパンと叩く。

俺も気合入れて頑張らないとな、と。わざわざ自分の意思で故郷を捨て、この世界へ舞い戻ったのだから。

鼻息荒く奮起した少年は、明日王城へ赴くための準備をすべく自室へ向かって歩き出した。