薄く積もった新雪をさくさくと踏み締めながら、ベルグレッテは異国の街並みを見渡した。
白銀に彩られた景観は、どこか儚げで幻想的な美しさを感じさせる。レインディールとはまた違う趣があり、その気になればいつまでも眺めていられそうだった。オームゾルフがやたらと推してくるのも頷ける。
ただ、
「うう、寒っ……」
吹き抜けていく一陣の風、かすかに巻き上げられる粉雪。
如何ともしがたいこの凍てつくような感覚だけは、どうあっても慣れる気がしない。
「…………」
そして慣れないといえば、これである。
その上に乗ると、金属製の格子がカンと高い音を立てた。網目の隙間から、わずかな雪が下へと落ちていく。
流雪水路と呼ばれる機構。舗道に沿って延びる、排雪のための細道。
こうして下を眺めてみると、かなりの深さと広さがある。水は全く流れておらず、所々に氷片がへばりついていた。下まで三マイレほどもあるだろうか。落ちて流される人もいるという話だが、無理もない大きさと広さだった。
今は降っていないが、聖礼式《パレッツァ》が行われている間に雪になれば、人手の面で不足して大変そうだ。
そんな白い街並みを行くことしばらく。
(……っ、ちょっと困ったわね……)
大きな声ではとても言えないが、お花摘みに行きたくなってきてしまった。兵舎で借りるしかないだろう。
街に人影は少ない。本日は聖礼式《パレッツァ》と呼ばれる催しが開催される日であり、住民の大半は最寄りの教会などでこれに参加しているという。
「ここの角を曲がって……、ん、あれね」
地図を頼りに進むこと数分、すぐに目的の無骨な石の建物が見つかった。身を切る寒さのためか、それとも兵も聖礼式《パレッツァ》に参加しているのか、外に見張りの姿はない。
「こんにちはー……」
両開きの扉を引いて中へ入ると、包み込むような暖かさがベルグレッテを迎えた。
屋内では出入り口近くの散らかった席にて、カップ片手に機関誌を広げている中年の男性兵士が一人。他には誰の姿もない。
「ん? あいよ、何か困り事でも?」
誌面から顔を上げた兵士が、湯気の漂うカップに口をつけながら尋ねてきた。
「私はこのたびオームゾルフさまに招かれて参りました、レインディール王国のベルグレッテ・フィズ・ガーティルードと申します。昨日はご期待に沿えることができず、申しわけございませんでした。恐縮ながらレノーレの件につきまして、いくつかお尋ねしたいことが……」
「オームゾルフ様に……? 昨日……?」
彼は飲み物をすすりつつ眉を寄せ、
「失礼だが、何か証拠はおありか?」
「えっ?」
「君がオームゾルフ様に招かれた客人である、という証拠だ」
「……、と、申されましても……」
今しがた語った通り。ほんのつい昨日、多くの兵士らと作戦をともにしたばかりである。ここでそんな確認を求められること自体、さすがに想定外だった。
(……そういえば……)
そこで少女騎士は先日、飲み水をもらいに食堂へ行った折のことを思い出した。あれも、出会った兵士に流護が道を尋ねた際、訝しい反応を返されたのだ。
「……あっ。では、これでしたらいかがでしょうか」
しかしながら咄嗟に思い立ったベルグレッテは、一枚の紙片を取り出し差し出してみる。
「むっ? これは……!」
その紙面を凝視した兵士が驚きに目を剥く。料理店や美術館を無料利用するために受け取った、オームゾルフ直筆の紹介状だった。
「筆跡も、判印も……確かに、オームゾルフ様のものだな! いや、これは失礼致した!」
疑わしげな態度から一転、兵士は快活な笑顔でそう詫びた。
「ああ、悪かったね。オームゾルフ様がお客人を呼んだって話は聞いてたが、どんな人かまでは知らなかったんでな。何せ今は、色んな賞金稼ぎ共が街に来てるもんだから。ふむ、まさかこんな美しいお嬢さんだとは」
「はあ、恐れ入ります……」
「助っ人さんは三人? いや四人だったっけ?」
「いえ、私たちは全員で五名となります」
「あれ、そうだったかい? 昨日ってのはあれか、ユーバスルラでデカい捕り物があったってのは聞いてるが。ベンディスム将軍が指揮を執ったんだったか?」
「あ、はい。ええ」
「メルティナ・スノウが現れて、結局逃げられちまったって話だっけか。彼女が相手では致し方なしってところだが……『雪嵐白騎士隊《グラッシェラ・デュエラ》』は来れなかったのかい?」
「ええと……」
想定外に次ぐ想定外だった。
情報を仕入れにやってきたというのに、逆にあれこれ尋ねられてしまっている。どうやら、全ての兵士が詳しく情報を共有している訳ではないらしい。
「……っとぉ、俺ばっかり話しちゃって悪いね。で、何だったかな?」
「あ、ええと……その今回の件につきまして、なにかお話を伺えればと思ったのですが……」
「ふーむ。俺はあんまり詳しくなくてねえ」
ようやく本題に入るも、やはり望み薄だった。
「どなたか、詳しそうなかたはおられませんでしょうか?」
「うーむ。今はちょうどウチの連中も出払っちまっててなあ。ホラ、今日は聖礼式《パレッツァ》の日だから。ま、いたところで大した話は聞けんと思うが」
「そう、ですか……。ええと……念のためいくつか、情報のすり合わせを――」
そこからしばし話を聞いてみたが、彼の言葉通り有益な手がかりは得られないようだった。むしろベルグレッテのほうがまだ事情に詳しいのでは、といった感すらある。
「いやはや、ご期待に沿えず申し訳ないね。まあ俺らみたいな下っ端はさ、この件についちゃほとんど蚊帳の外なんだよ。それこそホラ、派閥の――、っと」
やにわにハッとしたような顔となった彼は、ごまかすようにカップの中身をすすった。
「いや、何でもない。お客人には関係ない話だった」
「……?」
その様子が少し引っ掛かるベルグレッテだったが、話し込むうちに時間も経ってしまっている。そろそろ閑所を借りて美術館へ向かわなければならないだろう。
結局、収穫らしい収穫もなく兵舎を後にすることとなるのだった。
すぐ近場に大衆食堂らしき店を発見した流護は、空きっ腹を押さえながらその扉を潜った。
「おおっ」
屋内にはぐるりとカウンターが張り巡らされており、その内側が調理エリアとなっている。日本の牛丼屋を彷彿とさせる、なじみやすい雑多な雰囲気だった。
いかにも熟練の料理人といった見てくれの気難しそうな男が、踊る火の上で巨大鍋をがらんがらんと振りながら声を張った。
「らっしゃい、お一人で!?」
「うい、一人でっす」
「はいよ、適当に空いてるとこ座ってくんな!」
昼を少し過ぎた頃合いながら、店内は適度に賑わっていた。装いからして、旅人が大半のようだ。耳を打つ炒めものの大音響。漂ってくる香ばしい匂い。
(うんうん、これよこれ。この空気。いいっすね~)
現代日本の一般的な家庭で育った少年としては、やはりこうした庶民的な空気のほうが肌に合う。
(この店アタリっぽくね?)
空いている席に座ろうと上機嫌で歩き始めて、
「ん?」
「ん?」
カウンター席に腰掛けているその人物と目が合った。
不精ひげを生やした、悪人面の小男。丸っとした体型で、一見して中年のようにも思えるが、顔には若干の幼さを残している。この異世界では珍しいことに、その背丈は流護より低い。
そんな見覚えのある姿に流護が声を上げるより早く、
「リ、リューゴの兄貴……!?」
驚きに満ちた面持ちで呼びかけてきたのは、相手のほうだった。
「えっと……ガドガド、だよな?」
流護もたどたどしく応じる。
「そ、そうですぜ! リューゴの兄貴に命を救われた、ガドガド・ケラスですぜ! お久しぶりで!」
去年の夏、レフェで開催された天轟闘宴。その闘いの最中でとある経緯から知り合った、参加者の一人だった。
「うおお、こんなところで会えるなんて! こいつもラクタナの思し召しですかねえ! お元気でしたか、リューゴの兄貴ィ!」
「ああ……うん、まあ」
「あれからどうしてやしたか!? 何でバダルノイスに!? 一人で!? ベルグレッテ姐さんは一緒じゃねぇんですか!?」
興奮しきりなガドガドの丸い頭を、その隣に座る男がポカリと叩く。
「店ん中でうるせぇぞ、ガドガド。静かにしろい」
「す、すまねぇ兄貴ィ」
「ったく、お前はもう少し慎みってもんを覚えやがれ。おう……奇遇だな」
後半の言葉を流護に向けたその男が、タバコの煙をくゆらせながら片手を上げてきた。痩せぎすでひげ面、年齢は三十そこそこといった印象の飄々とした人物。
「ああ、ラルッツ……か。元気そうで何より」
「お互いにな」
こちらはガドガドの兄貴分、ラルッツ・バッフェだった。
天轟闘宴で顔見知りとなり、その後しばらく入院することになった病院でも交流のあった彼らだが、ラルッツが退院したことを機に旅立っていったのだ。それ以来となるので、約半年ぶりの再会となる。
昔は殺しご法度の山賊稼業に身をやつしていたという彼ら二人だが、現在は完全に足を洗い傭兵兼冒険者として各地を放浪している。
天轟闘宴に参加したのも、単純に一攫千金を狙ってのことだったと聞く。
もう会うことはないかもしれないと思っていた流護だったが、一方で彼らの職業柄、このようにバッタリ出会ってもおかしくはなかったといえる。
「いやー、嬉しいよ! 立ち話も何だし、座ってくだせえよリューゴの兄貴ィ! ささ、どうぞどうぞ!」
「はは……。そんじゃ遠慮なく」
椅子を引いてくれたガドガドの隣に腰掛け、ひとまず店主お勧めのメニューを大盛りで注文した。
琥珀色の液体が入ったジョッキを片手にしたラルッツが、ガドガド越しに尋ねてくる。
「お前さん、レインディールの遊撃兵って話だったろ。どうしてバダルノイスにいる? 何かの任務か?」
「いや、ちょっと個人的な用事で……」
「ふうん。よりによって冬のバダルノイスに来るたあ、よっぽどのこったな」
「……ああ、まあ色々あって。そういう二人は何でバダルノイスに?」
その問いに答えたのはラルッツではなく、ぐっふっふと不気味な笑い声を漏らす舎弟の少年だった。
「決まってるじゃあないですかい、リューゴの兄貴ィ! 金のニオイがする所に我らあり、ってヤツですよい」
「威張って言うことじゃねぇだろよ……」
兄貴分のツッコミにもめげず、ガドガドは懐からそれを取り出した。そして、その短い手と指でバンとカウンターに広げてみせる。それに目をやった流護は、
「……、ああ」
そういうことか、と心から納得した。
彼らが冬のバダルノイスにやってきた理由。
それは一枚の手配書。記載されているのは破格の褒賞金と、見知った少女の似顔絵。
「見てくださいよ、リューゴの兄貴ィ! この金額! 仰天でがしょう!?」
「まあ、うん……」
流護自身、初めて見たときは目を剥いたものだ。その気持ちはよく分かる。もっとも、ガドガドとは驚きの方向性が異なるのだが。
「しっかしこのレノーレって娘っ子、こんな大人しそうな顔して何を仕出かしたんでしょうかねぇ。まっ、とにかく強そうにゃ見えねぇし、これなら俺っちでも勝てそうだ。生死不問だから、手を掛けなくて済むのもありがてぇ。こんな年端もいかねぇめごい娘っ子を殺っちまうなんて、いくら何でも気分が悪いでやすからね。にしても、千五百万かぁ……。それだけあったらアレが買えるし、肉もたらふく食えるし、女だって寄ってくるかも……へへ、へへへへへ」
夢を広げながら皮算用に勤しむガドガド。そんな彼とは対照的に、
「……リューゴ? どうかしたか?」
熟練の観察眼とでもいうべきか、少年の微妙な面持ちに気付いたらしいラルッツが眉を寄せる。
「……いや、実はさ……」
話しておくべきだ、と判断した。
さすがに長くなったが、これまでの経緯についてざっと二人に説明した。
このレノーレがミディール学院の生徒であり、自分やベルグレッテの友人であり、バダルノイスの元・宮廷詠術士(メイジ)であること。そのレノーレが手配されていることを知り、騒ぎをどうにか丸く収めるため、ここバダルノイスまでやってきたこと。サベルやジュリーと組み、オームゾルフや兵士らの協力も得て、昨日ようやくレノーレとの対面が叶ったが、突如乱入してきたメルティナに阻まれ逃げられてしまったこと……。
ひとまずかなりかいつまんでそれだけ話したが、この間に料理が到着、食事を開始し、大盛りでも足りず三杯目に突入するところまで進んでいる。
「……な、なんてこった……。この娘っ子が、リューゴの兄貴たちの知り合いだったなんて……」
「ふん。だから俺らに、レノーレを狙わねぇでくれ……って言いたい訳か?」
ラルッツの試すような問いに対し、
「いや。そもそも、捕まえるのは無理だと思う」
流護は一も二もなく断言した。
「チッ、はっきり言ってくれやがって。……だが実際、その通りだろうな。多くの兵士どもに加えてあのサベルとジュリー、お前さんまでもが敵わなかったとなりゃ、とても俺らの手に負える相手じゃねえさね。噂以上だな、メルティナ・スノウってのは」
レノーレの身柄に関しては現状、むしろ極めて安全だと流護は考えている。生半可な相手など、あのメルティナに鎧袖一触で蹴散らされるだけだからだ。
(つか、話がおかしなことになってんだよな。メルティナを連れてった罪でレノーレに懸賞金がかけられて、そのレノーレを捕まえようとするとメルティナが妨害に出てきて……、何だってんだよ、あの二人は)
タバコの煙をふーっと吐き出したラルッツは、「ま、想像はしてたがよ」とボサボサの頭を掻く。
「こんな小娘一人を相手に、いくら何でも懸賞額がデカ過ぎると思ったんだ。絶対ぇに妙なウラがあるだろうとは予想してたが、そういう事情だったかい」
「ど、どういうことですかい、ラルッツの兄貴ィ」
「バカのお前にも分かりやすく言うとな、千五百万は諦めるしかねぇってことだ。俺らの手に負えるヤマじゃねぇ」
「そっ、そんなぁ! ……あっ、でもこのレノーレって娘っ子がリューゴの兄貴の連れとなると、どっちみち諦めるしかねぇか……」
ガドガドが目に見えてシュンとしてしまい、流護も譲れないとはいえちょっと申し訳なくなってくる。
「いや、何か盛り上がりに水差しちゃって悪かったな……」
「いやいや、気にしねぇでくだせえよリューゴの兄貴ィ! 俺っちが受けた恩義は、こんな金じゃとても釣り合わねぇんですから!」
悪人面のガドガドだが、義理堅さは折り紙つきだった。
「屁でもねぇでがすよ、千五百万なんて! ……千五百万、なんて……」
ついでに庶民っぽさも折り紙つきだった。何というかこう、流護としては嫌いになれない。
「でよ、その小娘二人は何だって国から逃げ回ってやがるんだ」
一方、最初から怪しい案件と睨んでいたらしいラルッツは、気落ちした様子もなく酒をちびちびとやりながら尋ねてくる。
「ああ、それなんだけど……」
どこから説明したものか、と悩みながら、
「なんつーか……レノーレとメルティナが、一緒になるつもりかもしれなくて……」
「……女同士なんだよな?」
「ああいや、変な意味じゃなくてさ。こう、なんつーかな……」
「一緒になるってのはあれか、宗教的な意味合いか? バダルノイスの連中ってのは、言ってみりゃキュアレネー狂信者だからな。俺みたいのには理解できん、さぞご高尚なことをやらかしても不思議には思わんが」
「いや、どっちかってーと物理的な意味合いだな。まず、オルケスターとかいう犯罪組織? みたいのがあって――」
その名前を出した瞬間だった。
酒のつまみ代わりに聞いていた風のラルッツが、これでもかと目を見開いて硬直する。たっぷり数秒の後、彼は手にしていたジョッキを恐る恐る机上へ置いた。
「……今、何て言った?」
静かに見据えてくる瞳は、酔っぱらいのものではない。普段の斜に構えて飄々としたラルッツからは想像もつかない、鋭い眼光。
隣のガドガドも、思いもよらぬものを見たような目をしている。
「オルケスター……つったよな?」
ラルッツのその口ぶりで、流護も遅まきながら察する。
「……あんた、もしかして知ってるのか!?」
「こっちのセリフだ……!」
辺りを憚るようにキョロキョロと見渡したラルッツは、背を丸めながら声も潜めた。
「リューゴよ……お前まさか、奴等とモメてんのか」
「いや、揉めてるも何もない。実際にメンバーを見たこともないし」
レノーレがその一員だという話だが、認めたくないので咄嗟に除外した。オルケスターそのものにしても、これまで何度か名前を耳にしただけ。流護としては今のところ、裏でそういった怪しい組織が暗躍しているような気配も感じない。
「つかラルッツ、連中のこと詳しいのか?」
尋ねると、彼は観念した面持ちでかぶりを振った。
「……俺とガドガドが元山賊だってのは知っての通りだ。……でよ……当時所属してた団を抜ける原因になったのが、奴等。オルケスターだ」
「!」
初耳だった。
もっとも今しがた彼が語った通り、二人の経歴については『元山賊、今は足を洗って何でも屋』程度しか聞いていない。
「忘れたくても忘れられねぇ……。俺は今でも、見ちゃいけねぇものを見たと思ってる。あれは――」
語り始めたラルッツの声と唇は、明らかな恐怖にわなないていた。