I Swear I Won’t Bother You Again!

124. Goodbye Practice

いつもより少しだけ早く帰宅したヴィオレットは、着替えを済ませてマリンが用意してくれたホットミルクを楽しんでいた。落ち込んでいた訳ではないのだが、頼むより先にマリンが持ってきてくれたから。甘い香りと、ほっとする味付け。好物である事には変わりないので文句を言うつもりはないが、マリンが希望を聞いてこなかった事は疑問に思う。

(どうしたのかしら……)

いつも通り、出迎えから休息の準備まで完璧だった。表情に感情が出る訳ではないのは昔からで、笑う時も眉尻が下がって穏やかな顔付きになるだけ。それでも何となく察せるくらいには長く共にいて、互いに心を傾けてきた。ヴィオレットが落ち込んだ時、自分の中の何かが死んでいく時、いつもギリギリの所でこの甘さが引き留めてくれていた。飲む度に、愛情を思い出させてくれる。穴から零れていく幸せの何倍もを注いでくれる。

それはマリンにとっても、一種のルーティンになっていた。

SOSほどの気持ちではないだろうけど、何かもどかしい事があった時、消化しきれない何かを溜めている時。マリンはホットミルクを作る。この味が、この甘さが、二人にとっての優しさと愛情の象徴だから。

(元気がない……とは少し違った気がするし。悩み事だとしたら、力になりたいけれど)

聞き出した所で、マリンは絶対に答えない。信頼し、尊重し、大切にされているから分かる。マリンにとって、ヴィオレットは庇護者だ。従者であり、家族の様な人。役割を決めるなら、姉の様な存在。守りたいと思われているし、守られていると知っているから、弱い所も悩んでいる所も見せてはもらえない。

それが不信からくる物だとは思わないけれど、力不足であるとは思う。いつも心配しか掛けてこなかったのだから、当然と言えば当然だけれど。

(怪我をしたとか、体調が悪いとかではなさそうだから……ひとまずは安心だけれど)

顔色も良かったし、傷も見られなかった。仮にヴィオレットの見えない位置に包帯があったとして、何かあったらマリンを止めるだろう人材は知っている。ある意味では、ヴィオレット以上にマリンをセーブ出来る人を。ヴィオレットよりも大人なマリンよりも、更に大人が。

(そういえば……今年はまだマリンへのプレゼントを贈っていないわ)

正確に言えば、マリンの生まれた日ではないけれど。孤児とはいえ数年は誰かの子供だったマリンは、自分の誕生日を覚えてはいた。ただそれを祝うのを好まず、むしろ嫌っている節があって。昔聞いた時、忘れたとか知らないとかではぐらかされたが、年齢をきちんと数えられているという事はそういう事だ。

だから毎年、マリンの誕生日は祝う事なく、プレゼントを用意するだけに留めている。それも誕生日プレゼントの名目ではなく、ヴィオレットの気まぐれとして……気付かれては、いるのだろうけれど。

二十歳の時は記念だからと万年筆を送ったが、普段は出来るだけ食べ物や消耗品の中から選んでいる。それは母に気付かれない為であったけれど、今年は別の意味で気を付けないといけない。マリンの場合は高価なものを渡しても重荷になりかねないので、出来ればあまり気取っていない方が好まれる。

「二十一、かぁ……」

細くて、身長よりも随分小さく見えた幼少の頃から、時は大きく過ぎた。子供が大人になるだけの月日を共に乗り越えて、今はまだ子供のヴィオレットも、もうすぐ大人にカテゴライズされる様になる。年齢以前に、卒業した時点で子供の代名詞は名乗れない。学生の身分を失った貴族に待っているのは、政治と統治、権力と見栄の蟻地獄。

その頃には、もう自分は貴族でもなければヴァーハンでもないだろうけれど。

「……マリン達の事も、考えておかないと」

迫る一年の終わり、かつての自分が断絶された地点まで、もうすぐだ。始まった時はまるで他人事みたいに考えていたし、心のどこかでまた寸断されるのだと諦めていたのだけれど。このままいけば、自分は三年生になる。

クローディア達は卒業してしまい、メアリージュンとの婚約も纏まる気配すら感じない。

かつてとは違う世界、まだ経験した事のない時間が始まる。

始まった時、漠然と決めた未来。修道女になるなんて適当な進路を考えていたけれど、そろそろ真剣にならなければいけない。

この家を出るのは当然として、修道女になれるかどうかはまた別だろう。信仰が自然に根付いている国だから、貴族の令嬢であっても聖職に着く事は出来るだろう。あの父をねじ伏せるだけの力は必要になるが、逆に父も問答無用で拒絶出来ないのがこの国の宗教である。大司教に話を持っていく事が出来れば、後はごり押しも可能なはずだ。

ただ問題は、聖職者にとって唯一絶対に必要な物を、神への忠誠と信仰を、ヴィオレットが欠片も持ち合わせていない事。神の花嫁ともいえる修道女になったとして、自分は、きっと生涯この恋心を捨てられない事。欲深く、罪深く、でもそれを心底悔いるだけの良心もない事。聖職に相応しくない理由のオンパレードだ。

といっても他に道がないならいくらでも嘘を重ねるとして、気がかりなのは自分よりも、マリンやシスイなどの世話になった者達の事で。

マリンを残していきたくはない。この家はきっと、マリンにとっても毒であったし、自分がいなくなれば尚の事、毒素は増し解毒方法はない。でもここを出たとして、マリンはどうするのだろうか。教会を飛び出して、この家に流れ着いた者に、修道女になろうなんて言える訳がない。だからといって、生まれも育ちも保証されないマリンを雇ってくれる貴族がいるだろうか。

頼みの綱は、ユランだけだろう。一応自分を通じて顔見知りではあるし、話だけでも通してみる価値はある。それは同時に、ヴィオレットの計画を打ち明ける事で、彼への恋を、失恋に変換する儀式になるだろうけれど。

誰かの幸せを、願える様になった。誰かの事を、心配出来る様になった。自分が振り回したナイフが、傷付けたくない人をも巻き込む事を知った。得られた感情と同じだけ、与える想いも考える様になった。失う事が寂しいと思えるくらいに、沢山の物を貰った。

終わりから続いた世界に、ちゃんと意味を見出す事が出来た。それだけで、この一年に価値がある。

「…………」

カップの底に沈んだ、一番甘い部分を飲み干した。胸にじんわりと広がる温さと甘さが、切なさと一緒に落ちていく。ゆっくりと、吸収されていく。

「……お腹、空いちゃった」

込み上げてくる何かを誤魔化す様に、わざと声に出してみた。お腹が空いているのは本当だけれど、別の所が満ちている感覚が心地よい。まだマリンは来ていないから、たまには、自分が呼びに行ってみようかなんて思ったりして。

神が調整した様なタイミングで、部屋の戸を叩く音が響く。

小さくて弱い、静かな部屋には充分な振動で。

「はい」

マリンだと思った。この部屋に来るなんて、彼女以外に想像出来なかったから。返事をしても入室してくる気配の無さと、声が聞こえない事に不審感を覚えて、他の使用人の誰かか、もしかしてメアリージュンなのかと逡巡した後、ゆっくりと扉を開いた。

人影は、小さい。次に綺麗な純白と、碧眼。この家でその特徴を持つのは、二人だけ。

「ごきげんよう」

人が愛と平和を連想する慈愛の笑みを携えて、その人は立っていた。

「──エレファ、様?」