I Swear I Won’t Bother You Again!

109. Ahead of Collapse

出来ないなんて、ただの言い訳だと思っていた。出来ないではなく、やらないの間違いだろうって。やり方がわかっているならばそれに邁進するのは当然で、結果が伴わないのは諦めたからだって。

そんな言葉を言える方がずっと、同じ場所にしがみ付いて進もうとしていないっていうのに。一歩を踏み出す事、それを続ける事の意味も。進んだ先に必ずしも『成果』が待っているとは限らない事すら、知らなかったのだと。

× × × ×

マリンに告げられた、ヴィオレットの堕ちる先。

本来なら極刑であるはずの所を、永遠の投獄に減刑されたのだと──異母妹の恩情によって。

誰もがその心に感銘し、愛らしく優しいメアリージュンを讃えた。聖女の様に持て囃されて、この国の未来はその加護により安定だと。王子の婚約者としても、その価値をどこまでも高めている。誰も彼も、ヴィオレットの存在もその人生も、忘れたふりをして。

『ころしてやりたい』

真っ赤な瞳で、真っ赤に染まった目で、ひとしきり泣きじゃくったマリンが零した言葉、本音。まるでもう一人の自分を見ているかの様に、その内心も全部全部理解出来た。

彼女を悪とした者も、彼女を罰した者も、彼女を忘れた者も、全部全部ころしてやりたい。幸せになるなんて許せない。彼女と同じ、いやそれ以上の地獄を、不幸を、どれだけ望んでも足りないくらいに。

あの事件の後、マリンもユラン同様ヴィオレットの共犯を疑われていた。義務的なそれだったユランよりもずっと厳しい取り調べを受けていただろう事も、それでもなおヴィオレットを庇い慕う彼女に、世間の目が段々厳しきなっていた事も。ヴィオレットが一人でやった事だと、計画性のない短絡的な犯行であったと認めた事で、誰もが手の平を返した様にマリンから手を引いたけれど。

当然の様にヴァーハン家から追い出されたマリンは、ユランと共に彼女の解放を求めて動いてきた。

彼女の罪の根源を、意味を、誰も考えずに葬ろうとするのなら。その先に起こった事だって不問にされるべきだ。法律に則て、正しい権利と権限で叫んできた。そのどれもが、誰の耳にも届かず終わったけれど。

ヴィオレットの刑が確定して、どれくらい経ったのか分からない。奔走した分の疲労と寝不足と、神を失った抜け殻にはもう理性も思考も残ってはいなかった。

何度も何度も要望して、時には嘆願して、それでも結果は変わる事なく横たわる。

もう二度と、会う事が出来ない。

もう二度と、声を聴く事が出来ない。

話し掛けてもらえない、名前を呼んでもらえない。

もう、笑った姿を見る事も、出来ない。

この手はもう、永遠に彼女には届かない。

大袈裟ではなく、自分はヴィオレットを失ったら死ぬのだと思っていた。ユランの人生から彼女の存在がなくなる、それは世界の崩壊で、その瞬間、何の前触れもなく心臓は機能を停止するのだと。何の根拠もなく、理屈もなく、ただ当然の様にそうなるべきなのだと。

なのにどうして、今も自分は生きているのか。この心臓は変わらず、脈打ち鼓動しているのか。

──この時、何故あの場所を選択したのか、今になってもよく分からない。思い入れがあった訳でも、信仰に目覚めた訳でも、全てを捨てて仕えるつもりも毛頭無くて。

理由を問われても、答えはない。ただこの怒りを、この恨みと憎しみを、ぶつけたかっただけ。

そしてぶつけるなら、出来るだけ大きく、多くの対象がいいと、思っただけ。

気が付いた時には、大聖堂の祭壇の前に立っていた。

大きなステンドグラスに描かれた聖母、その脇を固める天使の銅像、磨き上げられた燭台の上で揺れる炎までもが輝いて見える。この中であれば、空気さえも神聖な何かの様で。外よりもいくらか温度が低く感じるのは、厳かな雰囲気に中てられたせいだろうか。

仰ぎ見るその全てが、幸福の象徴だ。博愛と慈愛、正義と秩序の名の元にいる事が正しいと言わんばかりの、幸せだ。隣人を愛せと言ったのは、この中の天使だっただろうか、それとも微笑む聖女だったか。

誰も見た事の無い、誰も耳にした事のない偉大な誰かの素晴らしい価値観。その大らかさが神と呼ばれる所以で、神への冒涜が重罪で、世界に対する否定だと言うのなら。

俺の神を冒涜したお前達は、罪と罰で絶えるべきではないのか。

「ッ──‼‼」

視界に入った燭台を掴み、勢いだけで振りかぶる。どこにそんな力があったのか、きっと普段なら万全の体調でも両手を要した重量を、引っ掴んだ片手で叩き付ける様に目の前の硝子へと投げ付けた。肩の骨と神経が悲鳴を上げた気がしたけれど、そんな事どうでも良くて。ユランの苛立ちを乗せた金属は緩やかな放物線を描いて聖母の胸に飛び込む。

抱えきれない衝撃と重みに、破片となった硝子がけたたましい音と共に舞った。何かが割れる音というのは、劈く悲鳴によく似ている。悲惨で悲痛で、切り裂かれる鋭さがあって。国を見守ってきた聖母を殺すには充分な凶器だ。

死ねばいいのだ、ヴィオレットを救わない者なんて。潰えればいいのだ、彼女に寄り添わない信仰なんて。

壊れればいいのだ、ヴィオレットを、ユランの望まない世界なんて、全部。

「何をなさっているのですか!」

音に気付いた誰かが様子を見に来たらしい。驚愕の声と何人もの足音が聞こえて、二つ目の燭台を掴んでいた手は封じられ、暴れる間もなく取り押さえられていた。捻られた手首も押さえられているだけの背中も動かず、頬を床に押し付けているだけで声も出ない。

揺さぶられた視界が、今も落ち着かない理由は分かっている。最後に眠ったのは、最後に食事をしたのはいつだったか。もう思い出せないくらい遠い記憶。そんな状態で無理をすれば、気持ちだけでなく身体も限界を迎えて当然だ。この状態でよく重い燭台をあの高さまで放れたものだ。

(なんで)

煮え切った感情とは裏腹に、急激に冷めていく脳が恨めしい。本能しか残っていない獣のくせに……本能しか、残っていないからこそ、思ってしまう。抱いてしまう。途方もない憎悪と同じだけの、後悔。

(何で、俺は)

自分の恋が叶わない事なんて、大した問題ではなかった。ただ、ヴィオレットの想いが成就するなら、それに勝るものなんてなかったから。その相手が誰であっても、例えこの世で一番相容れない相手であっても、構わないと。それで彼女が笑うなら、その先にいるのが自分でなくたっていいのだと。

物分かりのいい弟でいる事を選んで、彼女の未来を、信じてもいない男に託した結果が、この様か。

首を丸めて、額を擦り付けた硬質な床が僅かな体温までも奪っていく。鼻の奥がツンとして、奥歯を噛み締めてみたけれど望んでいた効果は得られなかった。眼球の奥から行き場を失った感情達が栓を失って流れ出す。

「ぁ、……」

粒が連なって滝になった水分が、頬から目尻から、顔を伝って髪まで濡らして、最後は床にいくつものシミを作る。喉の奥が絞られたみたいに収縮して、乾いた口の中は血の味が充満していた。

(何を、してるんだ、俺は)

ぐるぐるぐる、攪拌された記憶達が後悔によって選別される。思い出すのはいくつもの地点、いくつもあった、転換期。

始まりの場所。ヴィオレットが少しずつ、己を失っていった日。彼女の心を壊した、最後であり最大の一撃。

(……もしも)

もし、あの日に戻れたら、あの日々に戻れたなら。

あり得ない想像、夢にもならない願望、子供の妄想以下の想像。どんなに願っても過去は変えられず、未来はその不変の積み重ね。この結果も、歪なまま育った一人の人生なのだろう。

だとすれば、自分もきっと似たような最期となる。神を失い、心を失い、愛も信仰も取り上げられた己に残るのは、意思とは無関係に動く心臓だけ。それでもいつかは、体の持ち主に従って息の根が止まるはずだ。

(もう、どうでもいい)

死ぬのも、死ねないのも、どうでもいい。ユランの世界は滅んだ。それが全てでそれ以外はもう、考える事すら億劫だ。

ただ、思い描いてしまうのは。最後の最後、出涸らしになっても捨てられない、感情は。

(もしも、全部、やり直せたら)

微睡む様に霞がかっていく視界で、粉々に砕けた聖母を仰ぎ見る。割れた切っ先が反射して、後光に身を委ねている時よりもずっと輝いて見えた。涙でドロドロの顔のまま、溶けそうに潤んだ金色だけが鈍くなった刃物の色で神様だった物を睨み付ける。

限界を超えてもなお無理矢理に動かしていた体が悲鳴も上げられずに落ちるまで、ただひたすらに思っていた。

もし、あの日に戻れたら、あの日々に戻れたなら。

今度はもう、誰にも譲ったりしない。クローディアにも、他の誰かにも──神様にだって、譲らない。

ヴィオレットの幸せを、誰かに委ねたりしない。信じてもいない人間に、大切な宝を明け渡したりしない。

他の誰でもない、自分自身の手で、彼女を幸せにして見せるのに。