もしかしたら、来て欲しいとは思われていないかもしれない。その考えは常に頭のどこかにあり続けて——だから、アーシャに抱きつかれたときは正直に言うとホッとしたのだった。

ただ……うん、アレだね。ポリーナさん始めシークレットサーヴィスの皆さんが視線だけで殺しそうな勢いでこっちを見てきたり、メイドや執事の方々が唖然としているのはなかなかに居心地が悪いです。

しばらくして落ち着いたらしいアーシャとともに、部屋に移った。厳重に人払いをし、もちろんポリーナさんたちは「絶対にダメ」と食い下がってきたのだけど、マトヴェイさんが「陛下が許可したことだ」と言い切って押し通した。

広い部屋はアーシャの部屋らしく、素朴で温かみがある内装だった。

「ここは……私が幼いころから過ごしてきた部屋なんです。そのまま残っていたので今回も使わせてもらうことになって……」

アーシャが言葉を句切って僕を見る。

「……レイジさん。どうして、こちらに? マトヴェイ兄様が力添えを?」

「いや、俺はなにもしてない。レイジはほぼ自分の力だけでここまで来たんだ」

「どうしてもアーシャと話をしたくて」

「私と……話を?」

僕はうなずき、そして話し始めた。

アーシャがどうしてシルヴィス王国に戻ったのか、理由を聞きたかったこと。レフ魔導帝国の皇帝が条件を呑めばアーシャは自由の身になるのだから、自分の好きなように生きてもいいこと。もしもラルクを気にして戻ったのなら、それは止してほしいこと。

ラルクの件は、僕もどうしたらいいかわからない。

【森羅万象】ではラルクの生命力低下について情報があるものの、それをどうしたらいいのか、教えてくれないのだ。

こんなことは初めてだった。

たとえばダンテスさんの石化毒については治療方法が頭に思い浮かんだし、アーシャの特異体質についてもそうだ。

だけどラルクのそれは——あるがままの自然をそのまま映し出すように、【森羅万象】はただ「生命力が低下している」としか言わないのだった。

これは憶測でしかないのだけれど、病気や毒と違って明確な異物がないから、【森羅万象】は僕の望む答えを出さないんじゃないだろうか。

「エルフの秘薬が、どんなものか僕は知りません。でもそれでラルクを治せる保証はありませんし、今はアーシャの思いを優先して欲しいんです」

「…………」

僕の話をうつむいて聞いていたアーシャは、笑みを——なんとも穏やかで、見る人を安心させるような笑みを浮かべた。

「レイジさん、ひとつ勘違いをなさっていますわ」

「え……?」

「私、魔唱歌(チャント)を歌えることがとても誇らしいのです。そうしてマトヴェイ兄様たちと同じようにこの森のために自分がなにかできる……そうしてくれたレイジさんに感謝もしていますし、なにかお礼ができるのならとも思います。秘薬はそのうちのひとつです。もちろん、ラルク様が治らなければ意味がないものになってしまいますけれど」

「意味がないなんて、そんな……でも、そうだったんですね」

アーシャは、いやいやここに戻ってきたのではないのか。それがわかっただけでもよかった。

ハイエルフの王族なのだ——そう簡単に「自由に生きます」と言えないだろうことくらいはわかっていたけれど、それでもアーシャは、自分の責務に対して真正面から取り組もうとしている。

それなら、僕も彼女の背中を押してあげるべきだろう。

「わかりまし——」

「ちょっと待て、アーシャ」

すると、それまで黙っていたマトヴェイさんが口を開いた。

「確かにお前は落ちこぼれの俺なんかよりよっぽど魔力量もあるし、魔唱歌(チャント)をやってくれるなら陛下も、ユーリーたち兄弟も喜ぶだろう。だけど、別に魔唱歌は毎日毎日歌ってるわけじゃないし、お前がいない間だってどうにかなっていた」

「そう……なんですか?」

マトヴェイさんは腕組みし、うなずいた。

「季節ごとに重要な節目があり、そのときには魔唱歌が必要になる。だが、それだけさ。魔唱歌が必要ないときにお前がここから出ていって悪いなんてことはないだろう」

「マトヴェイ兄様、それは……」

「ああ、そうだ。陛下に交渉して、お前だけでも外に出る許可をもらったらいい。この森にもそろそろ変化が必要だ」

「…………」

今度はアーシャが難しい顔をして黙り込んだ。

「どうした、アーシャ。お前だって本音を言えば外に出たいのだろう? 目を見ればわかる。どうして素直になれない。ここに、お前のためにわざわざやってきてくれたレイジがいるんだぞ」

「……ですが、それは……そんな、ワガママを……」

「なにがワガママだ!」

拳を、マトヴェイさんがテーブルに叩きつける。

「お前を、魔導飛行船の代金(・・)として他国に売った、この国のほうがよほどワガママじゃないか……! お前は正当な権利を主張しているだけだ」

「……魔唱歌はハイエルフしか歌えません」

「だからなんだ」

「少しでもハイエルフの血を残し、この森を守ろうとする陛下のお気持ちを、私は理解できます」

「この森が滅ぶなら滅べばいい」

「兄様! 言葉が過ぎます」

「過ぎるものか! 俺はお前たちに比べれば圧倒的に魔力量が少ない落ちこぼれだが、おかげでいろいろなものがよく見えている。エルフの暮らしも、この森の外の暮らしもだ。『三天森林(サードフォレスト)』の外を見て見ろ。キースグラン連邦は『六天鉱山(シックスマイン)』を失い、天賦珠玉を死ぬほど欲しがっている。だが陛下はここからの持ち出しを制限しているだろう? 鉱山が動かなければ、やがて連邦はこの森に圧力を掛けるぞ。そうなったら魔唱歌もなにもあったものじゃない」

「でも兄様は——」

「ちょ、ちょっと待ってください」

僕は間に入った。

「アーシャの希望を聞くだけのことが……なんだか話が変わりすぎではありませんか?」

「むう……」

「そ、そうですね。ごめんなさい」

「この世界のバランスを取るためにも盟約を守ることは重要だと僕は思っています」

「お前も陛下と同じ考えか」

マトヴェイさんが僕を見る目に敵意がふくらむ。

「落ち着いてください——ハイエルフの盟約を守るのと、産出された天賦珠玉を出し渋るのは話が違うということです」

「……む?」

「産出された天賦珠玉はどうしているんですか? 全部壊すわけではないですよね? もし、外部の圧力が掛かるのならそれを流通させれば終わりです。この森はそのままですよ」

「それは……いや、そうはいかない」

「どうしてですか」

「……いや、実は」

「兄様」

言いかけたマトヴェイさんをアーシャが止める。

なんだ? なにか秘密でもあるのか?

「……レイジさん。これ以上はいけません。これ以上は、あくまでもハイエルフの問題で——」

「盟約を守るのに魔唱歌は必要ありません」

僕はそこで、国王陛下の話を聞いて感じていた疑問をぶつけた。

「天賦珠玉を取りすぎるな、天賦珠玉は世界を構成する……これだけですから。魔唱歌とはいったいなんなのですか? 天賦珠玉の産出量を調整するなんてできないでしょう? 森を守る結界のようなものですか? いや、それなら密猟者がうろつくわけもないし」

「…………」

「…………」

するとアーシャも、マトヴェイさんも黙りこくってしまった。

どうやら魔唱歌にハイエルフの秘密があるみたいだ。

——そなたはまたここに戻ってくるだろう……いや、戻らぬのならそれでもよい。

国王陛下はさっき、そう言った。

つまりは「これ以上秘密に首を突っ込むのか」、「回れ右して聞かなかったことにして帰るのか」、そのどちらかを選べということだ。

「……ハイエルフは魔唱歌によって縛り付けられてきた種族でもある、ということなんですね」

アーシャの運命もまた魔唱歌の「務め」によって縛られているのなら。

「もう一度陛下に、話を聞きます」

その「務め」がなんなのかを明らかにし、彼らの運命を縛る鎖をほどかないと——アーシャがほんとうに、自分の気持ちに正直になることはできない。

【森羅万象】なら魔唱歌の秘密を解き明かすことができるはずだ。